ABOUT English
英語で日常生活記録

 私を凹ませる些細なこと 

メリカの暮らしの中で、時々私のやる気を消沈させるのは、非常に些細な事なのだ。



い物に行って、レジの列に並ぶ。しばらくして私の番になる。私はレジ係の人に「Hi.」と声をかける。相手に私の声が聞こえていない訳が無いのに、無視される。無言の相手にも、一応ぶっきらぼうに「Thank you.」と言ってレジを離れる。と、後ろから聞こえるやたら愛想のいいレジの声。「H〜i, How are you?」・・・くそ〜。

しかけられて、一回では聞き取れずに「I'm sorry?」と聞き返した私に、「この人英語が分からないのね」という態度をとる人。フッとため息をつき、人を「ハァ〜?」と下から見上げるように覗き込まないで欲しい。・・・こんちくしょう〜。

語で何かを伝えようと、必死になって何とか努めているのに、私の言いたいことも伝えきれないままで、相手は「ああ〜っもういい、いいよ」と話を一方的にやめてしまう。私は消化不良のままで会話を断絶され、胸焼けしそうになる。・・・ぐやじ〜。



にでも同じようにそっけない人ならば、こういう人だから仕方ないさと思える。それが、あからさまに他とは違う冷たい態度や、失礼さは許せない。言ってしまえば、その人も「所詮はそういう人」ということか。

にどんな人がいてもいちいち気にすることは無いし、ここでは私が外国人である以上、不便さは仕方が無いと思う。でも不便さと理不尽さはまったく別物ではないだろうか。

手が私にした振る舞いは、相手にとってはさぞかし小さなことなのだろうと思う。きっと次の瞬間には忘れてしまうだろう。それなのに、私にとってはとても苦々しく、不愉快に感じることなのだ。私はしばらく嫌な気分で過ごすというのに、相手はきっと、そんなことを考えもしないのだろう。もし確信犯なら、それはそれで恐ろしい。



んな相手とのコミュニケーションでも、礼儀というのは重視されるべきである。たとえ出身国や言語が違っても、人種や身なりが違っても、だ。それを相手にしないとか、あからさまに不躾な態度をとったりする人は、結局それほどの狭い見識しかもっていないのだと思ってしまう。

語を話そうと努めて、伝わらなくて、冷たくあしらわれて、ガッカリして・・・。日々の中で繰り返す出来事である。小さいながらも、この失望感はとても切ない。人を簡単に傷つけたり、へこませたりするのは、たいてい挑戦する意気を奪われた時だ。人のやる気を奪うのは、きっと些細な事なのだと思う。

求不満のままで、ちっとも消化されないと、だんだん前向きさを失ってゆく。人はやる気を失ったら気持ちが腐ってしまう。息苦しさに潰されそうになる。些細なことが積もり積もって、ある時プツリと切れる。渡米期間に比例して、その間隔はだんだん広がってきたとはいえ、私にもそういうサイクルがある。

かに、私の話す「伝わらない英語」を聞かされるほうも、勘弁して欲しいと思っているのかもしれない。とはいえ、たとえ誰かに冷たくあしらわれても、七転び八起きで立ち上がるしかないのだ。何事も諦めたら、そこでお仕舞いになってしまう。1度は無視された誰かにだって、きっと気持ちが通じるものだと思うことが大切なのだろう。



る日、お店で「Hi.」と挨拶する声が無意識にだんだん小さくなってきたら、気持ちがめげてしまったサインかもしれない。そうしたらもっと大きな声で「Thank you.」と言おう。笑顔で誰かと挨拶できるだけでも気持ちが良い。悪い事も、次に良い事があれば忘れられるのが私の良いところなのだ。








 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送