miyamu's
DAY BY DAY

アメリカ徒然日記
アメリカ生活いい感じ。
いいトコ探せばいい感じ。
いいコト出来ればいい感じ。
いいヒト出会うといい感じ。

June2003 back numbers ★過去の徒然日記
Jun 30, 2003

後1ヶ月検診を受けるために、minimuを連れて病院へ行った。2週間前の検診では診察前に50分待ちをした事もあって、今回はあらかじめ時間潰しグッズを持ち込んだ。スペイン語のテキストである。スペイン語のクラスでは初回からお手上げ状態にされてしまったので、明日の授業はもう少し理解してから臨みたいと密かにリベンジを狙っているのだ。それなのに、こんな時に限って早く呼ばれるのだから上手く行かない・・・。

診では身長・体重など一通りのボディチェックを行ってから、その後に本日のメインイベント(?)minimuの人生初の予防接種を受けた。B型肝炎の注射である。普通日本ではB型肝炎の予防接種は行わないのだが、アメリカと日本は子供が受けなければいけない予防接種の種類が異なるので仕方が無い。太ももにブスッと注射を刺されて大騒ぎのminimu・・・頑張るのだ!

メリカは子供の受ける注射のノルマが多い。よく日本からアメリカの学校に転校した子供達が入学前に予防接種をまとめて受けるという話を耳にするが、アメリカは移民の国だけあって世界中から人が出入りしているから、それと同時にやってくる恐れがある伝染病に対しても厳しい処置を徹底しているのだろう。学校の入学に予防接種の条件が付いていることで、可哀相に、一日に何本も注射を受けたという人もいる。

がカレッジのクレジット付き授業に申し込む際に予防接種を受けたというの医師の証明書を提出しなければならなかった時も、風疹やはしかなど全3回の予防接種の記録が必要だった。幸い日系の医療機関だったので、そのうちの2回分は日本での過去の記録を口頭で伝えてサインしてもらった。何でそんなに沢山の注射が必要なのかと感じたけれど、注射を受けなくては学校に行けないし、そういうものだから仕方が無いと受け入れるしかない。

んな訳で、来月以降もバラエティ豊かに注射は続くのである。頑張れ〜minimu。


Jun 29, 2003

ナダのトロントで同性愛者の結婚が法的に認められるようになり、受付が本格的に始まったらしい。男女の結婚と同じようなステップで結婚できるようになったというのは、差別的な扱いを受けていたゲイのカップルにとっては喜ばしい進展なのではないかと思う。

の中には結婚していなくても結婚しているのと同様に生活している人達は星の数ほどいるというのに、ゲイのカップルがそれほどまでに「結婚」にこだわるのは、普通の男女のカップルのように「希望すればいつでも結婚できる」という選択肢が無いからだろう。社会的に家族になって生きてゆけることには(ゲイのカップルに夫婦というには語弊があるかと思う)単なる書類上でのこと以上に意味があるのだ。

は少ない同性愛者の結婚が将来一般に浸透されていくとしたら、adoption(養子を迎えること)をするカップルも増えて行くだろう。今でさえマンハッタンを歩いていると、時々大人の男性2人組が小さな子供を乗せたベビーカーを押して歩いているのを見かけるが、もしかしたら100年後の世界は小学校の授業参観などで2人揃って見に来たりするのも自然な光景になっているかもしれない。

米に比べるとヨーロッパの方が同性間での結婚を認める動きが活発のようだが、実際のところ同性愛者はまだまだ異端者として見られがちなのが現状だから、トロントの例は世界的に見ても革新的な事だと思う。それにしても、欧米には自由な思想や主張が受け入れられる環境が整っていて、世間にも柔軟さがあるように感じさせられる。文化の違いはあるとはいえど、いつか日本でも同性愛者の結婚が認められるか・・・?と考えると、かなり疑問である。


Jun 27, 2003

っと前から私の足の裏には魚の目が出来ている。私は魚の目がいつからそこにあるのか覚えていないし、きっと数年前から続いている症状なのだろう。これまで「まぁそのうち消えるだろう」と特に気にしていなかったのだが、最近になって歩きすぎると痛みを伴うようになってきたので困ってしまった。

般的には靴のサイズが足に合っていなかったり体重の負担で圧力がかかっている箇所があると、皮膚の一部が固くなって分厚さをまし、やがてたこや魚の目に成長するらしい。(指に出来るペンだこも一箇所への圧迫によって起こるので、原理は同じだとか。)なぜ魚の目が出来たのだろうか。仕事を辞めてこちらに来てからは小奇麗な格好とは無縁ともいえる生活をしているし、平べったい靴やスニーカーばかり履いてきたというのに。

の魚の目は確か最初は小さなたこだった。それがいつの間にかだんだん大きくなり、ついには魚の目に成長していた。同じ場所にいくつかの小さなたこが集中して出来て、それが繋がって塊状になってしまったのだ。もしや、妊娠中の体重増加で魚の目が巨大化したのだろうか?これからサンダルで歩くシーズンだし、この魚の目をなんとかスッキリ解決したい。

と母親が魚の目をカミソリで削っていたのを思い出して、私も硬化した皮膚を少しずつ削って取り除いてみることにした。手先が狂わないようにと緊張しながらゆっくり刃を当てたのだが、魚の目の皮膚はガチガチに固くて、深追いしなければ痛覚が無かった。この強行治療(?)の後は盛り上がっていた固い皮膚が無くなり、不快な痛みも無くなった。よかったよかった。・・・でも時間が経つとまた同じ事の繰り返しなのだから、それって根本的な解決にはならないよなぁ・・・。

語で魚の目やたこを何ていうのだろうか。まさかfishy eye(か、fish's)じゃあるまい。気になったら仕方ない、何事も調べてみるのが基本である。そうしたら、魚の目はfish云々ではなくてcornというらしい。トウモロコシのcornと同じスペルだから、つぶつぶしたイメージが共通なのかもしれないなぁと思いつつ、そうやって覚えた方が簡単なので「トウモロコシみたいな粒だから、魚の目はcorn」と記憶することにした。(こうして私の記憶力はどうでもよい使えない情報ばかり吸収してゆくのであった・・・。)


Jun 26, 2003

い・・・暑すぎる。先週までの雨模様から打って変わって、週明けから晴れて蒸し暑い日が続いている。その気温は30℃台で完全に真夏の陽気である。確かにそろそろ晴れて欲しいと思っていたけれど、こんな一気に変わってくれなくたっていいのに・・・。

れにしても夏前に車のエアコンを直しておいて本当に良かった。こんなに暑い日にクーラー無しでは運転などしたくない。僅かな時間でも車内の温度はサウナ並に上昇するし、ハンドルも触れないくらい熱くなってしまうのだから、日差しのパワーは凄まじい。買い物時などはクーラーバッグが必需品である。

速道路の路肩にはオーバーヒートで煙を出している車がいくつも発生して、故障車とパトカーを見物する人たちで渋滞していた。何も暑い中、野次馬なんてしなくていいから早く走れ!と言いたくなる。余談ながら、このような時に日本車が故障しているのはほとんど見かけないので、やはり日本車は優秀だ。オーバーヒートにはアメリカ車・・・これがよくある組み合わせだ。

ころで、子連れ(特に赤ちゃん連れ)での外出は見知らぬ人によく話し掛けられる。それに思わぬ親切を受けることが多い。些細な事ながら、私がベビーカーを押して店の前に行くと、必ずと言っていいほど誰かがドアを開けてくれる。子供からお年寄りまで男女問わず、とても自然でスマートにこの動作をやってのける。見た目が怖い若者だって、サッと近づいてきてドアを支えてくれるのだ。これはアメリカの素敵な一面だと思う。


Jun 25, 2003

「from scratch」という言葉を時々目にする。これは「物事を一から始める事」という意味のイディオムである。例えば飲食店の宣伝やメニューにこの言葉を見かけたら、その店は出来合いの物は一切使わないで素材の状態から料理しているということだ。私のスペイン語の教科書にも、確かに「from scratch」と書かれていたのだが、始まった授業は思いっきりジャンプスタートだった。

ペイン語の担当の先生は習うより慣れろ方針の人だった。子供が言葉を覚える時に、「Como estas」のcomoとestasがそれぞれどんな意味なのかなどといちいち気にしないで口にするように、細かい事は気にしないでとにかく使って慣れて覚えよう!という授業をするのだ。英語禁止のようなムードの中、怒涛の勢いで授業は進む。このペースは慣れないとかなりキツイ・・・。

生は黒板は使わないし、教科書もほとんど使わないでいきなりバシバシとスペイン語で質問を投げかけてくる。会話するのにスペルなんて必要ないから、基本的に何も書かない授業なのだ。「話し掛けられても私は全然分からないのに〜!!」と泣きそうな気分になる。多少出来ないのは仕方ないけれど、こんなにチンプンカンプンだと参ってしまう。私はまるで転校早々現地校の授業に戸惑う小学生のような気持ちになっていた。

ペイン語の授業を受けているクラスメイトの半分はアメリカ人、もう半分は留学生だった。アメリカ人の生徒達はカルチャースクール的なノリで来ており、教養としてスペイン語に興味があるようで、既に基本的なことは理解しているような感じだった。さらに留学生たちも私のようにゼロから始めるようなレベルではなかった。英語やヨーロッパ圏の言語はスペイン語に近いので、結構すんなりと理解できる部分が多いのだ。アルファベットを使わない国から来ているのは私以外ではインド人の2人だけで、私と同じく戸惑いを隠せない様子である。同じ教室で授業を受けるには、ゼロからの人と理解出来ている人とは雲泥の差があるではないか。

「語学の勉強は完璧を目指すものではなく、コミュニケーションを取る道具として使うものだ」というのが先生の信念なのだそうだ。でも全然分からない私にとっては未知の世界に放り込まれたようなもので、2時間の授業を終える頃には私は強烈に疲れていた。ふう、語学スクールで英語以外の言語を習う人たちは、すごいよなぁ。来週までに教科書を読んで、どのくらい距離を縮められるだろうか。まずは頑張ろう。


Jun 24, 2003

薇という漢字を見たとき、「ばら」だとは読めるのに書けない。このように読めても書けないという漢字はけっこうある。これと同じで、アメリカ人にも読めても書けない単語がある。彼らも英単語のスペルを間違えるのだ。私はこのことを最初は意外に思ったのだが、よく考えたら私だって薔薇って書けないのだから、きっとそれと同じことなのだ。

ンキースタジアムで試合の合間に、球場のビジョンでスペリングゲームなるものが流れる。ファンに選手の名前を「○○はどう書くの?」と聞いてスペルを答えさせるゲームなのだ。名前は英単語ではないし、外国人選手もいるから難しいスペルも多いのだが、正解がすらっと出てくる人が少ない。(そういう風にVTRを編集しているだけなのかもしれないが)

月ちょうど私が病院に入院している頃に、アメリカで子供のスペリングコンテストなるものが行われていて、病室のTVでその優勝者が映っていた。インド系の12歳くらいの少年だった。優勝の秘訣は家で家族と一緒に何でもスペリングするトレーニングを欠かさない事だとか。これは日本にもいる暗算や漢字が得意なスーパーチビッコの仲間だなと思いながら見ていた。漢字検定1級の漢字なんて普段使わないけれど、クラスで漢字博士とか呼ばれているような子供達は「何でそんなの知ってるの?」という漢字を知っているのだ。

のコンテストはとてもシンプルなルールで、参加者はマイクの前に立ち、出題された単語のスペルを答えるのだ。「ウォーターのスペルは?」と聞かれたら「W・A・T・E・R」と答えればよいのだが、出題の単語は何かの専門用語だったり長い単語だったりするので、参加している子供には言葉の意味が分からないこともあり、途中で辞書での定義を聞く人もいる。普段使わない単語を書けるというメリットは何だろうなんて思ってしまったが、そんなことをこのコンテストに言ってはいけないのだろう。

Cで文章を書くようになってから、私は漢字能力がどんどん下がって来ているような気がしているのだが、困った事に英語のスペル能力も一緒に下がって来ている。英文をMSソフトのWordで書くと、単語のスペルを間違えると自動修正が入ったり下線が入ってしまうので、自分で考えないようになってきてしまったのだ。便利だとはいえ、この機能に頼りっぱなしだと自分の為にはならない。手書きの時はしょっちゅう辞書を引くから、時々は自分で書かないといけないなと思う。英語も漢字も自分で使わないと、基本的な事でも度忘れしたり、書き間違えてしまったりするのだ。


Jun 23, 2003

曜日の夜に激しい雷雨があって、停電したら嫌だねなんて話していたら、日曜日に朝起きてスイッチを入れても電気がつかない。あれ、壊れたかな?と他の電化製品を試してみるも、反応なし。こりゃ停電だ!

本のように電気の供給が安定していないのか、こちらでは電線に木が引っ掛かったとか強風や雪だとかいう簡単な事でもすぐ停電してしまうのだが、実際に停電になったのは久し振りだ。寒い季節でもなく、夜でもなくてよかった。それにしても一体いつ停電したのだろうか。

電の時は冷蔵庫を開けないというのは基本なのだが、停電してからの時間を調べるために、私は一瞬だけ冷蔵庫を開けて中の空気に触れてからすぐに閉めた。まだ少し冷たいところをみると、電気が止まったのは数時間前のようだ。あまりにも長時間の停電では、牛乳も肉も買い置きしていたアイスクリームもみんなまとめてダメになってしまう。食材を守るためにも早く回復して欲しいと願う。

回は季節が過ごしやすい時期だったので別段慌てなかったけれど、仮に真冬に停電になるとどうなるかというと、こんな時は家を脱出するか、しっかり着込んで布団の中で丸くなって寝るしかない。暖炉が付いている家ならまだしも、アパートなどの場合はマッチでコンロに火をつけてお湯を沸かすか、電磁プレート式の家ではカセットコンロを使い、最悪の場合は早々に近場のモーテルに避難する人もいる。

局電気が戻ってきたのは昼前だった。キッチンのデジタル時計を見ると、数字は3時45分のままで点滅していたので割と長い停電だったようだ。気になるアイスクリームの箱を指で押してみたら、まだ融けた感触にはなっていなかったので一安心である。わずか数時間の電気なし生活ながら、普段自分がどのくらい電気に頼って暮らしているのかを味わったような気分だった。


Jun 21, 2003

日は待ちに待った(?)HarryPotter第5巻の発売日。世間で大流行している頃は本当にそんなに面白いのかと半信半疑で、かなり出遅れてから手に取ったのに、いざ読み始めたらすっかりファンになってしまったのだ。私はこれまで4巻までを日本語で読んで、最新刊が出たら米語版にチャレンジしようと思っていた。

書は英語の勉強になる。何よりも単語を忘れないためのトレーニングになる。さらに時間さえ許せばマイペースで続けられるし、自分が興味のある分野ならば苦痛にならず飽きが来ないのも良い。近頃は睡眠不足が気になるけれど、まずは早速購入しなくては。

速・・・と書いておきながら、私は日曜日に買うつもりである。スーパーの日曜日から始まるセールで、なんとこの最新刊が33%引きで売り出されるというのだ。その店はこの本が爆発的に売れることを見越して大量に発注したのだろう。日本では新品の本やCDの価格は決まっていて販売店が割引することは出来ないけれど、アメリカの販売店は売れなかった本を返品しないので、売り切るために割引するのだ。

こまで書いておいてBarnes&Noble(大手書店チェーン)のサイトを見てみたらさらにビックリ!発売日なのに、もうオンライン上で40%引きになっていた。ここまで来ると価格なんて有って無いような物だ。この調子で1週間も待ったら、半額以下で売り出す本屋もあるかもしれない。・・・ちょっと待とうかなぁ。


Jun 20, 2003

メリカには小さな子供を保護する目的のルールがいくつもあるが、中でも基本中の基本なのが13歳以下の子供を常に大人の保護下におく事である。片時たりとも子供だけには絶対してはならないのだ。この国ではスクールバスも、車での送り迎えも、ベビーシッターを利用する事も、全て子供を守るための常識である。

本で赤ちゃんの泣き声がなかなか止まない時に、近所の人はうるさいと思うだろうが「もしかして幼児虐待では?」という発想にはならないと思う。それが、こちらでは下手すると警察に通報されてしまう。僅かな時間でも家や車の中に子供を置き去りにすることは禁じられているので、子供を置いてどこかへ行ってしまった親は、虐待として子供を取り上げられてしまっても自業自得なのである。たとえ赤ちゃんがよく眠っていても、その隙に家を空けるのはご法度なのだ。



日カレッジの申込みをした矢先、初回の授業の日に夫が外出となってしまった。私が学校に通えるのは、夫がminimuと一緒にいられるという大前提の上なのだから、こうなってしまってはお手上げである。どうしようかと悩んでみても、いくつか選択肢がある中でも最も濃厚なのは、私が授業を欠席することなのだ。

んな授業でも初回を逃すのは出来るだけ避けたいし、2回目から参加するのは気分的にも憂鬱なのだが、授業中の数時間だけベビーシッターを頼むほどの事かというとどうかと思ってしまう。止むを得ない事情ならばまだしも、今回は完全に自分達の都合なのだ。(とはいえ、こちらでは大人の社会と子供の社会が完全に分かれている為、ベビーシッターは都合に合わせて積極的に利用するものなのだが。)申し込む時にも全部出席するのは多分無理だろうと想像していたし、初回は仕方ないと諦めよう。しかしながら夫の外出と私の授業を天秤にかけると、やはり社交的要素の強い男性社会に重きがあるように感じるのは・・・これまたどうしようもない。

を言うとベビーシッターはカレッジの授業料よりも高かったりする。そうだ、このように授業に出られなかった分だけ「ベビーシッターを頼んだつもり貯金」でもするというのはどうだろう?一学期が終わったら、最後にこの貯金で自分へのご褒美を買うというのは・・・?ちょっと名案かもしれない。もちろんそのためには自習もキッチリしないとね。


Jun 19, 2003

の家の大家さんは敷地内の手入れをマメにする人なので、住んでいる方としてはありがたいと思う。(その管理費も家賃に含まれているのだが・・・。)今日は何人かのスタッフを引き連れて庭の手入れを行っていた。春に咲いたチューリップや水仙などの球根植物を、種を残して刈り取った後で土を耕して、これから咲く新しい花を植え替えていた。

しも自分で手を加えられる庭があったら、好きなように植物を植えてガーデニングしたい。私は虫が嫌いだけど、植物は好きなのだ。そういえば子供の頃に住んでいた家にあった庭が好きだった。夏休みの宿題に風景画が出ると、網戸を開けて縁側に出て庭を描いた。こまめに手入れをしていない庭だけれど、自然のままでもたくましく育って毎年花をつける木々に生命力というか野生の魅力を感じたのだ。

方になり窓を開けると、花壇はすっかりきれいに手入れされていた。自分のものではないけれど、今はここが私の庭なのだから季節をしっかり楽しまなくては。そうそう、春先に私がさりげなく植えておいた水仙も、来年には花がつくといいな。大家さんの植えた水仙とは色が違うので、それが目印なのだ。


Jun 18, 2003

の地域には梅雨はないと思っていたのに、今年はまるで梅雨時期の日本のような浮かない天気が続いている。雨がしとしと1日中降り続いたり、突然の夕立に見舞われたり、気温も低めでスッキリしない。今年の5月は例年になく寒かったというし、その延長でいまだに夏らしくない夏になっている。ただでさえ短い夏なのだから、早く青空が見たい。

日は久し振りにカレッジに行った。先月に春のセメスターが終わってから、出産まで慌しく過ごしていたことでしばらく遠のいていた。その間にもカレッジでは卒業シーズンを終えて、すでに短期集中講座のような夏の新学期が始まっていた。夏の2ヶ月で1つクラスを上げるために通う人もいるけれど、外国人の学生にとっては秋まで母国に帰ったり、アルバイトでお金を溜めたりする期間のようだ。駐車場は普段よりもずっと空いていて、いつもの混雑がウソのようである。

がカレッジに向かったのには目的があって、今月末からスタートするノンクレジットのコースに申込みをしようと思ったからだ。何かに触れていなければアンテナはどんどん小さくなってしまうので、きっかけは自分で作らなければならない。悩んだ末に、Spanish1という初心者向けのスペイン語講座を選んだ。週に1日、2時間だけは自分の時間として何かに取り組んでみよう。

便利なことに、ノンクレジットのコースはオンライン上で申し込む事が可能になっている。でも、私は直接受付の人に授業について質問をしてから申し込みたかった。というのは、私はスペイン語が全然分からないのだ。そんな人間でも授業に参加できるのかという不安があった。他にも授業は英語で進められるのかとか、どんな教材を使うのかとか、ESLの英語力でも大丈夫かとか・・・考え出せば心配事はキリが無い。

応してくれたのは今までも何度となくお世話になっている顔見知りの人だった。彼が言うにはSpanish1はとても人気があるらしく、当初から予定していたクラスの他にもう1コマ新設されているという。しかもなんと残りの枠は1名分だというではないか。話を聞いてから少し検討しようと思っていたのに、目の前で最後の1席だと言われてしまっては申し込まない訳には行かないではないか・・・。こうして私の名前がリストの最後に書き込まれたのだった。


Jun 17, 2003

京が生活費の世界ランクで第1位に、大阪が第3位にそれぞれなったというけれど、この結果に納得できる反面で、私は「日本はただ物価が高いだけの国じゃないぞ!」と言いたくなった。他の国々にある東京ほどの規模の都市で、東京ほど安全な場所は無いのではないかと思うからだ。

界ランク第1位に生活費がかかるという東京で、仮にとことん生活費を切り詰めて暮らしてみたらどうだろう。安いアパートに住んで、移動手段は自転車で、食品は大安売りの日に買い込んで・・・と。これはとても質素で地味な暮らしかもしれないけれど、東京でだってやろうと思えばお金をかけなくても暮らせるはずだ。おまけに普通に気をつけてさえいれば、安全な暮らしが手に入るのだ。

はこの安全こそ、日本以外の国ではお金を出して買うものではないか。安全な暮らしのために高い家賃を払って治安の良いコミュニティに住もうとするのは、そうする事が必要だからだ。外国では安いアパートを探しても危険で不潔な場所にしか無かったり、街中で自転車が盗まれたり、安いスーパーのお客は低所得の人達ばかりだったりする。

々感じる事だけれど、日本と外国とでは日常の危険レベルが違っている。もちろん東京にも地域によって治安の良し悪しはあるけれど、NYほどひどくは無い。日本でも近年だんだん怖い事件や人が増えてきたのは事実ながら、隣にピストルを携帯して歩いている人なんて「いるわけ無い」と思える自体、日本はまだ安全な国なのだ。

済的な豊かさには個人差があるとはいえ、日本人の生活水準は世界的に見ても非常に高い。標準以下と呼ばれるような暮らしをしても、まだそこには安全があるはずだ。たとえ何でも高い国だというイメージが強くても、日本には生活費という数字だけでは量ることの出来ない価値があると思うのだ。


Jun 16, 2003

曜日に買い物に行った。折れた包丁の代わりを探すというのが1番の目的だったので、家庭用品なら何でも揃うというような大型雑貨店に出かけた。丁度何でも一品20%引きになるクーポンを持っていたし、できればその店で包丁を買いたかったのだ。

イフ売り場に直行したまでは良かったのに、結局何も買わずに帰ってきたのには訳がある。まずどの包丁も西洋料理用のステンレスのナイフだったこと、それに値段に開きがありすぎて混乱したこと、さらに同じメーカーでも何タイプも販売しており、それぞれの違いが分からなかったこと・・・等など。選択肢が多すぎて途方に暮れて、ついには決めあぐねてしまったのだ。

うして同じサイズの包丁なのに10ドルから100ドルまでの値段があるのだ?ブランド名と、素材の違いなのだけでそんなに差が開くものなのだろうか。値段と同じように切れ味にも10倍もの差があるのだろうか。話を聞こうにも店員が見当たらないし、1人でショーケースの前で20分ほどあれこれ考えていた。

ず1本ずつ包装された状態でラックにぶら下がっている、セルフサービスで買える包丁は安い。それに対してショーケースの中にきれいに陳列されている物は値段も高いし、プロフェッショナル仕様だとか五つ星だとか書かれているのだ。以前私がキッチン用品の店の閉店セールで買った包丁は、決して安くは無かったけれど、切れそうに見えて全然切れなくて、刃が大きいだけで役に立たない代物だった。ズラッと並ぶ包丁の前で「もう今日は買うのをやめてリサーチをして出直しだな」と思った。悩んだ時は買わないで一度頭を冷やして出直すのが良い。それが私の買い物の鉄則なのだ。

丁は買わなかったくせに、サンダルを一足買ってしまった。足に負担がかからない、平たくて軽くて柔らかい素材の歩きやすいサンダルを求めていたのだ。立ち寄った靴屋では「一足買ったら二足目は半額セール」を行っていた。もし30ドルのサンダルを買ったら、30ドル以下のサンダルがもう一足半額で買えるというセールだ。45ドルで2足のサンダルが手に入ることになるので、誰かと一緒に買いに行くのが得策だ。

が欲しいサンダルはすでに条件が絞られていた事もあって、割とすぐに気に入った商品を見つけることが出来た。買い物というものは欲しいものを見つけた時点で終わるはずなのに、ついつい「このサンダルを買ったら、もう一足は半額かぁ・・・。せっかくだから何か他に無いかなぁ。」と店内をグルグルと歩き回っていた。「一足買ったら二足目は半額セール」が実施されていると、もう一足買っておいても損じゃないかも・・・と思ってしまうのだ。

こでまた私は時間を費やしていた。次々に試着をしながら店内をめぐったけれど、最終的には「悩んだら買わない。」のルールに従って目当てのサンダルのみを買うことにした。いい商品はたくさんあったけれど、本当に今必要かどうかというと、別に無くてもよいのだ。そういう時は無理して買う必要もない。あの時もう一足買っておけばよかったと後になって後悔したら、こうしよう。まずはレシートを持って返品しに行ってから、その後でもう1度同じ物と、半額になる一足を買えばよいのだ。


Jun 13, 2003

「好き」と「愛している」いう日本語は違う。でも、誰かに愛の告白をする時に「愛してる!」といきなり言い出す日本人は少ない。そもそも日本人は「愛」という言葉を簡単に口にしないのだ。「愛している」には「好き」という以上にずっと重みがあるし、気恥ずかしさもあってか軽々しく口に出来ない感がある。その点「好き」はあらゆる場面で使える便利な言葉だと思う。「あなたが好き」というだけで十分に意味が通じるし、気持ちも伝わる。何で唐突にそんな話なの!?と思われるかもしれないが、ふと英語のLoveとLikeの使い分けを考えた時に、日本語の場合はどうかと思いついたのだ。

リウッド映画や海外ドラマなどでは俳優達がさも簡単に「I love you.」と口にしているから、さぞアメリカ人は「I Love you.」を連発する国民なのだろうと想像してしまいがちなのだが、実は彼らも日本人と同じようにLoveの出し惜しみをする。というのは、かつて教授が授業中に「誰かに好きだと伝える時、いきなりLoveを使わないでまずはLikeで(それを強調したりして)気持ちを表現する」と話していたのだ。

授曰く、Loveは「好き」という気持ちの中でも格別なもので、家族や親友、恋人同士がよく使うけれど、これから始まる段階の若いカップルにとってはLikeの方が都合が良いこともある・・・ということらしい。相手のことをよく知らない状態では、まずはLikeを使って様子を見るのだとか。あまり最初から深刻になりすぎると、相手が引いてしまうこともある。つまりLoveは切り札に取っておくのだそうだ。私はこの話を聞いたときに、恋と愛という日本語の違いに似ているのかな?と感じたのだった。

「だから、簡単に「I love you!」を言ってくるような人がいたら注意しなさいね」と教授は笑っていたけれど、確かにその通りかもしれない。昔々、私の友人が「君は限りなくLoveに近いLikeなんだけど、Loveじゃないんだ」と、意味の分かるような分からないような迷台詞で振られていたけれど、その彼もまんざら悪い人ではなかったのだ。

も、日常会話の中でLoveは頻繁に登場する。プレゼントを貰った時、美味しい物を食べた時などに「I love it!」と普通に使う。このようにLikeの代わりにLoveを使うのは特に女性に多いのだが、話し手と聞き手の間にある空気と表情のニュアンスで同じ言葉も意味が多様に変化するのだ。


Jun 12, 2003

inimuの2週間検診があったので、病院へ行った。さすがはBaby大好きアメリカ人。すれ違う人がみな口をそろえたように、「Congratulations!」だとか「How old is he?」などと話し掛けてくる。満面のスマイルで、人によっては我が子の赤ちゃん時代を思い出すわ・・・などと語る目が潤んでいたりする。赤ちゃんパワー恐るべし。ここはBabyにとっても優しい国なのだ。

く車のリアウィンドウに「赤ちゃんが乗っています」というようなサインを掲げている人がいる。小さな赤ちゃんを乗せて運転してみて、私は初めてそのような人達の気持ちが分かったように思う。ハンドリングも、アクセルとブレーキの踏み込み具合さえも自分1人で運転する時のカンとは明らかに違う。小さな段差が気になる。周りにはピリピリと気を使うし、スピードが出ていないのにやけに早く感じる。これはまさに初心者の頃の運転にそっくりだ。そうか、「赤ちゃんが乗っています」サインは「若葉マーク」のような免罪符として存在するのだ。そうと分かったら、私も1枚必要かもしれない。

約時間前に到着したのに、予約時間から50分も待たされた。病院にはそんなに多くの患者さんがいるとも思えないし、飛び込みの人以外は予約時間だってキッチリ決まっているのに。私は待つということをそれほど苦痛には感じないタイプの人間だと思うけれど、待合室での50分は長い。すやすやと眠るminimuを、泣かないでくれよ〜と祈る気持ちで見つめる。赤ちゃん連れの私は、時限爆弾を抱えているようなものなのだ。

う、minimuの生活サイクルはほぼ3時間と決まっている。おなかが空いたら泣いて、おむつを替えてと泣いて、気が済んだらうとうと・・・の繰り返しである。私はこの3時間を、ウルトラマンの地球滞在時間のようだと思う。きっかりきまった時間を上手く使うのはけっこう難しいのだ。「よし、寝たぞ。じゃ、次は○○だ!」と、こちらがminimuのペースにあわせてきびきびと雑務に立ち向かう姿はウルトラマンのよう・・・。

から外出の時は計算が必要で、今日みたいに待合室で50分というのは予定が狂ってしまう。こちらは病院に行く前に予約時間に間に合うように調整しているのだ。まずminimuを満腹にして、おむつを替えて、移動時間を入れて・・・と、ここまでで1時間弱。残りは2時間。この2時間で病院を済ませ、帰りにスーパー買い物をしなければならない。それなのに、待合室で50分もロスしてしまうとは。診察の終わる頃にはもうタイムリミットが近いではないか。ピコーンピコーンとウルトラマンのライトも点滅し始めたぞ。

の定、診察の採血と不安さで大騒ぎしたminimuは泣きつかれて空腹モードに突入し、さらに泣きわめく。「ああ、赤ちゃんおなかが空いてますね。」と先生に言われ、グサリ。「せっかく満腹にしてから来たのに、50分も待ったらおなかも空くわ〜」と心でため息をついてしまった。しかしそんな事では挫けず、再びうとうとモードになったminimuを連れて即効の買い物をして帰った。やれば出来るじゃないか、私。

やれやれ、やけに日記らしい日記になってしまったぞ。


Jun 11, 2003

食の支度をしていたら包丁が折れてしまった。ポッキリと2つに折れたというのではなく、正確には欠けてしまったというのだろうが、とにかく刃の真ん中という致命的な箇所がパキッと折れてしまったのだ。

の包丁とは学生時代からのお付き合いだった。入学時に牛刀・骨すき・小刀の3本セットで購入した物で、ご丁寧に当時の学籍番号まで入っているという思い出の包丁だ。学生時代の実習から、とある会社の入社試験、はたまた結婚後の家庭内において大活躍した包丁なのだ。和包丁は手に入らないだろうと日本からはるばるやって来たというのに、異国の地にてその生涯を終えるとは・・・とても悲しい。

の包丁が折れた諸悪の根源は一体なんだったのかというと、冷凍薄切り肉である。薄切り肉を生で売っている店もあることはあるけれど、私の家からは少々距離があるため、薄切り肉はもっぱら冷凍で買い置きしているのだ。これが仇となってしまった。

本では必ずと言ってよいほど売られているポピュラーな薄切り肉が、こちらでは滅多に見かけない。アメリカで肉というと、まずブロックか厚切りが基本である。薄切り肉と銘打って売られている肉が1cmの分厚さだったりするのだから笑ってしまう。私の求める薄切りはすき焼きや生姜焼きに使う薄さなのだ。「そんなの薄切りじゃないぞー!」と叫びたくなる。

んな訳で私は時々冷凍薄切り肉を使っているのだが、何分一度凍らせてしまった分だけ、生の肉と比較すると味と食感は劣ってしまう。冷凍時に肉の繊維内の水分が凝固してしまうため、解凍するとその水分がドリップとなって旨味共々外に流れ出てしまうのだ。水分の抜けたパサついた薄切り肉。でも、無いよりはマシである。

凍してある肉を切るのは至難の業だ。完全に解凍させてから使えばよいのだろうが、冷凍の肉を使おうと思いつく事自体、多くの場合が急いでいる時なのだ。パキッという嫌な音がした時には、心のどこかで予期していたくせに挑戦してしまった自分の愚かさに愕然としてしまった。まったく、後悔先に立たず・・・。

丁が折れたのは完全に私の自業自得なのだが、切れ味もよくて手に馴染んでいただけにかなりショックだったりする。これから私は何を使えばいいのだ!?とにかく早く根菜もイモ類もかぼちゃのような塊もサクサクと切れる包丁を手に入れなければ困ってしまう。毎日使うものだからこそ、少しぐらい高くても使い勝手の良い包丁を探したい。なにせ、アメリカの包丁はぜ〜〜んぜん切れないのだ!!そんな私が今狙っているのは中華包丁である。和包丁は無くても、中華包丁ならきっと手に入るはずである。

の包丁、長い間お世話になりました。ありがとう。残りの2本はもっと大切にするよ・・・。


Jun 10, 2003

し振りともいえる快晴に気持ちがあおられて、今日は衣替えをした。春の間に半分くらいの服を入れ替えてあったのだが、今回は半袖を新しく出すかわりに冬物を一気に洗濯して片付けるという完全に夏モードの衣替えとなった。ついでに2、3年袖を通していない服は捨てるというルールを打ち立てて、ゴミ袋一杯の古着を処分した。

メリカには衣替えというものが存在しないと気付いたのは、こちらに来て最初の冬が終わった時だった。春という寒さと暑さの中間の季節で、街行く人の服装に季節感は無かった。真冬モードが抜けきっていないコートにブーツの人と、すっかり夏を先取りしているサンダルとタンクトップの人が同じ道を歩いているというごちゃ混ぜな光景を目の当たりにしたのだ。

ちらの人にとって、服装の季節感というものはそれほど重要ではないように思う。基本的に流行にとらわれず自分の好きな物を身に付けている人たちだから、季節がどうであろうと(たとえ真冬に寒々しい格好をしている人がいても)その人が良いのなら周りがとやかく口を挟む事ではない。何を着ていても関係ないというのは気楽で良い。

本で数年前に流行ったけれどそれっきりで、もう誰も着ていないような服でも人目を気にせず着ていられるのはアメリカならではの気楽さなのだろう。流行おくれもなんのそので、私はいつも好きな物を着ているが、こんな強気さは帰国するとたんに消えうせる。帰国する前には「日本は今何が流行っている?みんなどんな物着ているの?」と焦りだすのだ。群集から浮くのが怖い私はやっぱり日本人・・・。

ころで、アメリカに衣替えが無いのは家の広さにも関係があるようだ。アメリカの家は広いし、それぞれのベッドルームには収納場所がたっぷり取られている。店で売られている洋服タンスのサイズも、部屋のサイズに合わせているため日本の1.5倍は大きい。このように洋服をしまう場所に困らないので、日本のようにクロゼットの中味を季節ごとに全取替えする必要なんてないのだろう。

は衣替えをしていないと何かと不便だし、真夏にウールの洋服が積まれているのを見るのは嫌なので、季節の変わり目には日本流に衣替えをし続けている。(でも、そうしないと洋服が増える一方で、全然処分できないという話もあったりして・・・。衣替えは大掃除と一緒で、やり遂げるとストレス解消になるのだ。)


Jun 9, 2003

退院してからというもの、新生児連れということもあって家から出ない生活を送っている。この短い期間でもすでに英語がスルスルと抜け始めているような気がする。TVや映画を見る時間がぐんと増えたので、今はリスニング強化週間なのだー!!と無理やり思い込んでみたりしているのだが。

いていのアメリカのTVにはCaption機能が付いているので、TV番組を字幕付きで見ることが出来る。Captionは本当ならば耳が不自由な人のための機能なのだろうけれど、私のように英語に不自由な者にとっては素晴らしいお助けツールとなる。

語教材の英語は、崩れていない美しい英語のお手本なのだからとても聞き取り易い。でも、ドラマや映画の中に登場する人は十人十色のクセがあるので同じようには行かない。文字で見たら「なぁんだ、こんな簡単な単語なのか」と思う会話でも、耳で聞くとまったく別物になってしまうのだ。早口だったり、はっきりしない音だったり、ましてスラングだったりした時にはまず完全には会話が聞こえてこないので、いつもCaptionに助けられる。

なみにニュースや野球中継のように生放送の場合でも字幕が出る。会話と同時に文字が出るとはいえ、字幕はタイプなのか口語のスピードには追いつけずに少し遅れて出てくる。ワガママは言えないけれど、これがCaptionの難点だ。耳で聞くのと目で見るのがズレるというのはとても混乱するのだ。それなのに野球中継でMatsuiとかIchiroと聞こえると、その部分にだけは即効で反応できるのが悲しい・・・。

にはCaptionに否定的な考えの人もいる。あまり字幕に頼り切っていると視覚で文字ばかり追ってしまい、耳で聞こうとう努力を怠ってしまうから・・・と言うのがその理由だ。確かに音だけに全神経を集中して聞こうとする場合の方がリスニングの練習にはなるけれど、それだけで全てを把握できるほど私の耳は鍛錬されていない。私はまだ字幕と音を対照しながら見ていた方が良い段階なのだと思っている。

ころで、minimuが小さいうちに家族と会わせてあげられないのが残念でインターネットテレビ電話を始めようかと思って調べていた。う〜ん、なんとも便利な時代になったものだ。出始めた頃と比べたら技術も向上した上に安くなっているようだし、残る最大の難関は実家で接続環境を作る事・・・かな。


Jun 8, 2003

日はTONY AWARDS(トニー賞)の日である。トニー賞は今年のベスト・ミュージカルを決定する祭典で、TVでも生放送される。オープン当初から周囲評価が高いHAIRSPRAYが1人勝ちしそうな予感・・・。

リナーズがNYに来ている。とは言ってもヤンキースとの試合の為に来ているのではなくて、NYのもう1つの野球チームであるメッツとの試合に来ているのだ。本来ならばメッツとマリナーズはリーグが違うので対戦することも無いのだが、このようにリーグの違うチーム同士が交流試合を行う事があるのだ。

ッツは今年(も)ダントツの最下位をキープ(?)しているちょっと寂しいチームながら、マリナーズにはイチローがいるしメッツにも新庄が在籍しているので、今回ばかりは彼らを目当てに日本人の観客が多く集まっているかもしれない。(新庄も出ると良いのだが・・・。)

曜日から週末にかけて3連戦の予定だったのに、昨日の試合はあいにくの雨で中止だった。その結果、なんと今日の試合がダブルヘッダーになってしまった。同じ日に連続で2試合を行うというスケジュールを強行するとは選手たちも気の毒なことだ。おまけに第1試合はマリナーズが圧勝して終わったので、メッツは気持ちを入れ替えるのが大変だろう。・・・ネットで見たら、新庄は出たらしいけどやっぱり第2試合もボロ負け・・・。メッツの災難はいつまで続くのか!?


Jun 7, 2003

「The Color of Paradise(邦題:太陽は、ぼくの瞳)」というイラン映画を観た。土曜日の午前中に何か見る番組はないかと思って何の気なしに観始めたのだが、イラン映画もなかなか良い。後で調べたら、99年にモントリオール国際映画祭でグランプリを受賞した作品だった。

目の少年と、その父親を中心とした物語はとても淡々と進んでゆく。

を離れて都会の全寮制盲学校に通っているモハマド少年。長い夏休みの始め、友人達はみな家族が迎えに来ているのにモハマドにだけ迎えが来ない。1人残された寮で、心の中の不安と孤独を噛み締めながら彼が待っているのは父親である。モハマドには母親がいないのだ。ようやく迎えにやって来た父親は、どこか憂鬱な表情である。彼には再婚したい女性がおり、モハマドのことをどこか疎ましく思わずにいられないのだ。

ハマドはとても感受性の強い子供である。目が見えないことで、彼の手と耳は彼にとって目の代わりなのだ。彼は触れられるもの全てから独自の世界を見ており、聞こえるもの全てに純粋に興味を抱く。父親が迎えに来た時、彼の手にそっと触れたモハマドは「もう来ないんじゃないかと思ってた」と言って泣くのだが、この一言でこれから始まる話の切なさが語られていると思う。

い旅をして故郷に戻ったモハマドは、愛する祖母と姉妹たちに歓迎される。美しい自然の中で、家族に囲まれて幸せを感じるモハマド。しかし父親だけは依然としてモハマドを心から受け入れられない。彼は自分の縁談を成功させることにばかり気を取られているのだ。父親は障害児である息子を自分の結婚を妨害する物と思っているので、「モハマドの将来が心配だ」という理由をつけてモハマドを盲目の大工の元に修行という名目をつけて預けてしまおうとする。祖母はそんな父親の思惑をお見通しで、彼と対立するのだが、父親は勝手にモハマドを大工の元へ連れ出してしまう・・・。そして、その事をきっかけにして悲しい出来事が起こってしまうのだ。

ハマドを演じる少年は、実際に盲学校に通う素人さんだったとか。でも彼が大工の元で初めて「僕の目が見えないから、みんなが僕をさけるんだ!」「神様は目に見えないけれど近くにいて感じられるものだから、僕らはこの手で見つけることができるんだって先生が言っていたのに」と涙ながらに胸の内を吐き出すシーンは、とても演技とは思えないほど心に訴えてくるし、真に迫っている。

の映画はモハマドの視点と同時に、モハマドの父親の視点からも描かれている。かなりダメな父親である彼は、上手くいかない事から抜け出せない原因が自分の中にあることに気付けずに悩んだり葛藤したりする。彼のように不器用で弱い人間は、実は世の中によくいる大人の姿なのかもしれない。彼は息子が盲目だということでまるで自分が損をしているかのように感じてしまうのだ。心の中では息子を愛しているけれど、目先の事にばかりとらわれてその事に気付けない。大切な物が何なのか、気付かないうちに失ってしまうこともあるというのに・・・。

ランというと中東の砂漠というイメージが強いけれど、この映画の舞台になっているのはイランでも緑の深い地方である。映画の全編を通じて見られる大自然と、その中で生きる素朴な人々や、イランの習慣なども興味深い見所の1つだと思う。例えば父親が貢物を持ち寄って女性の家族に結婚の交渉に行くという、イラン流の縁談の進め方が描かれていたりする。映像の美しさに加え、随所に入る動物や鳥の声、川のせせらぎが程よい効果音になっている。

画の終わり方には賛否両論、好き嫌いが分かれるかもしれない。観る人の主観によって幾通りかに受け取れるラストが待っているのだ。イラン語の映画なので英語字幕の解釈に不確かな部分もあったけれど、少なくとも観賞後にじっと考えさせられる作品だったことは確かだ。メッセージを投げかけてくるのを、各々の価値観で味わうタイプの映画という感じで私は好きだ。


Jun 6, 2003

食の支度をしている時にふと思った。そういえば、日本の缶詰はほとんどプルトップだったな・・・と。そんなことを思い出すのは、こちらの缶詰がほとんどプルトップではないからに他ならない。

めて日本に一時帰国したときに、アメリカの缶詰は不便だわ〜と思いながら私は100円ショップに行って缶切りを買った。タブを引いてパカッと開けば良いという便利さから、日本でプルトップ式の缶詰が登場してからそれが普及するのはとても早かったと思う。私が子供の頃は、確かに我が家には「缶詰を開ける」という種類のお手伝いが存在していたのだが、今やそんな時代ではないようだ。

ぜアメリカはプルトップ式の缶詰が少ないのだろう。アメリカの食生活に缶詰は欠かせないほど多種多様だというのに。アメリカの缶詰はすごい。何がすごいって、その豊富な品揃えには“無いものなんて、無いんじゃない?”と思える程なのだから。日本で私が使っていた缶詰の定番といえば、ツナ、カニ、コーン、マッシュルーム、フルーツ、パスタソース、それにペットフードぐらいだったので、アメリカのスーパーで缶詰コーナーが通路一杯に広がっているのを目の当たりにした時は軽いカルチャーショックを受けたのだ。

メリカの主婦は缶詰を開け、ざっと混ぜ合わせておかずを一品仕上げてしまう。肉・魚・甲殻類はもちろんのこと、スープ・ソース系、それに調理において茹でる行程が必須な野菜はたいてい水煮の缶詰になっている。アスパラやマメ類はもちろんのこと、人参さえも水煮になって売られているのだ。そのぐらい自分で料理しろよ〜と思う物が勢ぞろいしているのだ。

詰をキコキコと開けながら、日本のプルトップを便利だと思ったと同時に、それは実に日本らしい発想だなぁとも思ったのだった。プルトップにはアメリカの缶詰に要求される便利さと、日本の缶詰に要求される便利さの違いが現れているではないか。アメリカはプルトップなどにしなくても、安くて多種多様な缶詰が売られている事の方が重要なのだ。それに対して日本はコストが高くかかろうとプルトップで開ける手軽さが重要なのだ。缶切りで開ける手間はかけても料理は手をかけないアメリカと、缶切り不要という小さな手抜きをしても料理には手間をかける傾向にある日本は正反対だ。

ころで今日私が使った缶詰は、日本ではあまり使わない鶏肉の水煮だった。ツナは有機水銀の濃度が高いとかで身体にあまり良くないと聞いてから、私はツナを鶏肉に変えた。しかし、ツナの缶詰は別名「シーチキン」というだけあって、鶏肉の水煮缶は味も食感も「シーチキン」そっくりだったりする。鶏肉の水煮缶なんて日本にもあるのだろうか?


Jun 5, 2003

メリカンジョークは、私にはよく分からないものが多いけれど、ともかくアメリカ人は大人になっても遊び心を持っている人が多い。初対面の人との会話でもちょっとしたユーモアを挟むことを忘れない所や、スポーツ観戦になると人が変わったかのようになりふり構わず熱くなれる所や、何かパーティなどの企画を思いついたとたんに綿密に計画を立てて実行してしまうあたりが実に軽快なのだ。きっと彼らは自分が楽しむことに対してとても積極的なのだろう。

近私が遊び心があるなぁと思ったものは、「AFI's 100 Years ... 100 Heroes & Villains」という企画である。私は知らなかったのだが、今年はアメリカ映画が誕生して100周年らしい。この企画はそれを記念して行われたちょっと面白い投票なのだ。(ちなみにAFIとはAmerican Film Instituteの略で、米国映画協会のこと)

票というのは「AFI's 100 Years ... 100 Heroes & Villains」という名の通り、これまでの映画の中に登場した役柄の中から、ヒーローと悪党をそれぞれTOP50までランキングするというものである。「あなたが選ぶベスト映画」というような投票はありがちでつまらないけれど、登場するキャラクターにスポットを当てるというのは有りそうで無かったような気がするので、この発想が私はけっこう好きだ。映画というフィクションの世界に対してヒーローだとか悪党だとか格付けを行うという事は、下手すると「だからどうした?」となりそうなのに、しっかり盛り上げて見せてしまうところが楽しい。

の投票の結果、ヒーロー部門の第1位に選ばれたのは「To Kill a Mockingbird(アラバマ物語)」のアティカス・フィンチ弁護士で(演じたのはグレゴリー・ペック)、悪党部門の第1位には「The Silence of the Lambs(羊たちの沈黙)」のハンニバル・レクター博士(演じたのはアンソニー・ホプキンス・・・私の好きな!)が選ばれた。

念なことに私は「To Kill a Mockingbird」を観た事が無いので、この役柄をどうこう語ることが出来ないのだが、無数にいるお約束の暴れん坊ヒーローを抑えての堂々1位ということらしい。ヒーロー部門の第2位が「Raiders of the Lost Ark(レイダース・失われたアーク)」のインディ・ジョーンズ(演じたのはハリソン・フォード)だから、なるほど、知的ヒーローも有りなのだ。

ーローと悪党との対決は映画には付き物ながら、悪党そのものが主役級に目立った扱いを受けている映画は少ないので、私は悪党ランキングの方に興味を惹かれてしまう。ざっとランキングを見渡すと、例えば悪党部門の第12位だった「A Clockwork Orange(時計仕掛けのオレンジ)」のアレックスには納得だけれど、オイオイと思わずツッコミを入れてしまうような物も混ざっている。特にツボをくすぐられるのは第18位の「Jaws(ジョーズ)」のサメ・・・。悪党って、人じゃなくてもいいのか!?

んな「AFI's 100 Years ... 100 Heroes & Villains」の結果、ご興味がある映画好きな方はコチラへ。


Jun 3, 2003

月アメリカを盛り上げていたリアリティ番組、「American Idol」のお子様バージョンとも言える「American Juniors」という番組が始まっている。タレント性のある子供達が出演して歌やダンスなどのパフォーマンスを行い、視聴者の投票によって勝ち残りが決まってゆく。

台に立っても物怖じせずに大人顔負けのアピールをする子供達の背後で、最も熱狂している人たちがいる。それは他でもない子供達の親である。子供を熱心に励ましては、どのようにしたらウケのよい演技を見せる事が出来るかを教え込むような姿はすごい。敏腕マネージャーぶりというか、我が子を芸能人にしようという狙いだとかを感じさせる。日本でも子供をタレント養成学校や劇団に入れる親のような気の入れようなのである。

れにしても番組に出ている子供達はすごいと思う。歌は当たり前のように上手いし、ヘソ出しルックで激しいダンスを踊るし、バック転はするし、ウインクは上手いし・・・これで見かけがよければもうタレント性はバッチリという感じ。このノリは何となく沖縄アクターズスクールのような、ジャニーズJr.のような感じかもしれない。

己主張の強さや個人主義に価値を見出されるアメリカで、このように子供達がアイドルを目指して競い合う姿は観察していると異文化勉強のようで面白い。もしや子供達というよりは親のエゴのぶつかり合いになりそうな気配もするが、芸達者な子供達だけでもまあ次回も見てみようかな?という気にはなる。

放送でミス・ユニバースがやっている。これで優勝した人は世界で一番ということか!?今トップ10に選ばれた10人の中に、なんとJapanが入っていた!ここまで残っている唯一の東洋人なので、快挙ではないか。頑張れ、日本の美人さん。


Jun 2, 2003

産にまつわる話で恐縮ながら、今日は贈り物の習慣について少しだけ。

んともありがたいことに、このところあちこちから贈り物を頂いている。私は、アメリカ人女性が出産前に行うBaby Showerなる壮行会的なパーティを行っていないので(こればかりは自分で企画する物ではないのだが・・・)産後になってからminimu誕生と報告をした人たちが赤ちゃんグッズを贈ってくれるのだ。

メリカ人から贈り物を受け取ると、ラッピングの中にレシートが入っていることに気付く。これは「気に入らなかったり必要の無いものだったら交換をして、本当に欲しい物を買ってね!」という、日本では考えられない習慣なのだ。このギフト用のレシートは、実にアメリカらしい合理的な発想だと思う。少々値の張る贈り物にも「つまらない物ですが・・・」と恐縮しながら渡す日本の文化とは違いすぎている。

が誰かへの贈り物にと何か買い物をすれば、店員からは必ず「ギフトレシートは要りますか」と聞かれる。自分で心をこめて選んだ物を返品されてしまうのは悲しい気がするし、私はギフトレシートを受け取りつつもラッピングに同封するのは気が引ける。でもアメリカ人にしてみればレシートが入っている方が気が利いていて嬉しいと感じるのかもしれない。

んな訳で、今回頂いた物のいくつかにレシートが添えられていた。ギフトレシートには値段が書かれていないのだが(これだけは気が利いているかも・・・)、結局お店で交換をする際には同額分の交換となる。私はせっかくの贈り物を交換なんてする気にはならないけれど、きれいなラッピングに相反するような味気ないレシートを見ながら異文化体験をしているような気持ちになったのだ。


Jun 1, 2003

末に退院できたことで、余裕を持ってリハビリ期間を過ごす事が出来たこの2日間。身体はまだまだ本調子ではないので、ロボット調の動きである。今まで知らなかったこんなところにも筋肉があったのね〜という場所があちこち筋肉痛になっており、やけに新鮮である。

の中で時々蟻が出るようになってしまった。この蟻はかなり大きくて1.5cmくらいはあるので、部屋の中で見つけるとギョッとする。しかし、蟻を見つけてしまったら最後、そのまま生きて帰してならないのは暗黙の了解である。蟻が巣に帰ったら、もれなく続々と群をなしてやってきてしまうのだから、考えただけで恐ろしい。それだけはなんとしても避けたい事態なのだ。

は虫が嫌いなのだが、幸いこちらの家の中で害虫という虫が出ることは少ない。クモやゲジゲジが出る事はあっても、いまだゴキさんは見かけた事が無いのだ。子供の頃からゴキさんを発見してしまうと恐怖で身体が凍りつく私だが、見て見ぬフリが出来ない。野放しにすることも戦うことも両方嫌だけど、どちらが嫌かといったら前者なのである。

本では何度も決死の闘いをしていた私にとって、虫が出ないというのは幸せなのだ。人間の身体の大きさを考えれば、私が虫を恐れている事なんてとてもナンセンスなのかもしれない。でも、生理的にダメなものはダメなのだから仕方ない。そう思えば蟻なんてまだまだ可愛いものか・・・。(でも蟻は人を噛む危険な種類もあるので、早めに大家さんに報告しなければいけない。)




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