miyamu's
DAY BY DAY

ヨコハマ徒然日記
ヨコハマ生活いい感じ。
いいトコ探せばいい感じ。
いいコト出来ればいい感じ。
いいヒト出会うといい感じ。

March2004 back numbers ★過去の徒然日記
Mar 31, 2004

年も4分の1消化したってことか。毎度思う事ながら、早い!

が時々利用していた子供用品店が今年度を持って営業を終了、つまり完全に閉店することになっていた。私がその事を知ったのは大分前で、1ヶ月以上前から何か掘り出し物はないかなと、思い出したときにふらりと立ち寄っては目ぼしい物が無かった事にガッカリしつつ帰ってきていた。行く度に、もうここに来る頃はないだろうと思うのだが、閉店のタイムリミットが迫れば迫るほど割引率が高くなるのではないかと、せこい消費者心をくすぐってくるのだった。

してとうとう閉店の日がやってきた。私はConversationのレッスンの後で、その店の最後の姿を見届けるべく2週間ぶりに出向いた。考える事はみんな同じのようで、寂しかったはずの駐車場がいつになく混雑している。店内からは大きな袋を抱えて出てくる人がチラホラ見受けられ、「おっやっぱり何かいい物があるのかも!?」と気持ちが高揚してきた。しかし、喜び勇んで店内に入ると、やっぱり〜・・・。計4階ものフロアを使って、売られていたのは子供洋品とは関係無さそうなものばかりではないか。おまけに階を昇り降りする手間を考えたら、全部同じフロアに陳列したっていいぐらいのガラガラさ加減だ。

かし一応全ての売り場をチェックしてまわる事にした。ちょっと良さそうな木のおもちゃなどを見つけたが、輸入品の木のおもちゃはもともと高価な物なので安くなっていてもまだ高い。その他には10年前に流行っていたような時代遅れのキャラクター商品や、使えなさそうな上に埃をかぶった育児雑貨、なぜか関係なさそうな反物、さらにこんなの誰がするの?森久美子??というようなサイズのブラなど、かなりの品揃えだった。結局、子供の物は何も買わず仕舞い。それでも自分用に、2枚で100円のスカートを購入。これだけ安ければ捨てる気分で着られそうだし、着られなくても子供服にリメイクできるだけの布にはなるだろう。

りがとう、そしてさようなら。これからは赤ちゃん本舗に決めっ!(閉店に追いやった主とも。)


Mar 30, 2004

を送り出してからminimuが目を覚ますまでのひとときは、私の自由時間である。自由時間とはいえ家の中限定で、しかも家事を平行してこなしつつ、というおまけつきなのだが。でもこうして日記を書いたりテレビをみたり、リラックスした気持ちで過ごす。この頃睡眠不足なので本当は眠ればよいのだろうけど、1回起きて朝食の後片付けや洗濯などをしていると、もう寝なくてもいいやという気持ちになってしまう。睡眠時間と同じくらい、この自由時間も大切なのだ。

由時間になると、私はまずお茶を入れる。今日はコーヒーを淹れて日記を書いてから、溜まっていた読書をした。う〜ん、幸せな気分。カフェインの入った熱い飲み物と甘いものを少し身体に取り入れると、すっかり目が覚めてくる。インターネットで最新のニュースをチェックしているうちに、minimuの声が聞こえた。どうやら起きる時間がやってきたらしい。最近のminimuは、もうコタツ机につかまって伝い歩きをするようになっているので、パソコンを片付けてminimuを迎えに行った。

日は従姉に産まれた赤ちゃんに会いに、病院にお見舞いに行く事になっていたので、私もminimuも“おニューの服”を着て、出かける支度を始めた。その後minimuをお気に入りのおもちゃで気を惹きつつ、私はトイレに行ったのだが、部屋に戻るとそこに悲劇が待っていたのである。

アを開けると私は固まった。minimuがコーヒーのマグカップを掴んで、振り回していたのだ。何てこったの展開に、パニックになりかける。飲み残したコーヒーが入っていたのをすっかり忘れていた。私は大バカ者だぁぁ〜・・・。パソコンを片付けたところですっかり安心して、数時間前に飲んだコーヒーのことは見落としていた。

然、机もラグも床も白い壁も、テレビもヒーターもおニューの服も、コタツカバーもその中の羽毛布団もみ〜んなコーヒーまみれになった。麦茶ではなく、よりによってコーヒーとは・・・。飛び散り具合が激しすぎて、一体どこから手をつければ良いのかも分からないような惨状である。まず私はminimuの手から離れて転がったマグカップを流しに持っていき、コーヒーで染まったminimuの服を脱がした。この時に私の新しいスカートにもコーヒーの染みが出来た。しかし、これでとりあえず動き回られてもコーヒー汚染が広がる事はない。次に床と白い壁をサッと拭いたら、コタツ布団とラグの引き剥がしにかかった。こういう大物を全て洗わなければならないと思うと気がめいる。

が大きな布と格闘しているうちに、コタツのコードとじゃれるためにminimuが机に接近してきた。コラ、もう少しあっちにいて!と、机の角をガードしようとしたその時、更なる悲劇が・・・。つかまり立ちしようとしたminimuがバランスを崩し、“ゴッ”と顔を思いっきり机にぶつけてしまったのだ。リビングに叫びにも似た大泣きが響き渡る。大変っ!と、とっさに抱き上げるも、とても痛かったのだろう。顔を真っ赤にして涙をボロボロこぼしながら泣いている。コーヒーの片付けでアップアップだった私に、泣きじゃくる可哀相な子供が加わった。ああ、私も泣きそうだ。そんな緊迫した気配を察知してか、minimuもなかなか泣き止まない。ごめんね、あなたが悪いんじゃないよ。

ししてから泣き止んだminimuの額を確認したら、小さなこぶが出来ていた。大変な時こそ慌てずに付き合わなければならないのだと思い知る。どっと押し寄せる情けない気持ちと、罪悪感。それでも、すぐにニコニコと笑いだし、自分の遊びを再開する子供のパワーには救われる。コーヒーの後始末は1時間。洗濯は一日がかり。でも、もし子供が大きな怪我をしたら、それは一生かもしれないのだ。もしコーヒーが熱かったら?マグカップをぶつけて割れていたら?反省は尽きない。こうして母は学んでいくのだ。


Mar 29, 2004

語教室にて。「○○しませんか?」と人に尋ねたり、誘ったりする時に使う「Why don't you + V?」という決まり文句を使ったら、先生からこんなアドバイスを受けた。会話の時、質問文の語尾を上げるのか下げるのかによってニュアンスが違って伝わることがあり、この場合だと語尾を上げると単なるQuestionに、下げるとOfferする意味合いになると言われたのだ。そういえば、そんなことを昔習ったような気がするなぁと思い出しつつ、復習復習。今まで基本的なことを勘違いしたまま何の気なしに使っていて、毎度尻上りに喋っては相手を混乱させていたのではなかろうか?ふと不安になりつつ、指摘を受けたことをありがたく思った。

うして立ち止まり思うのは、私にとって言葉とは100点を取るために勉強したり研究したりするものではなく、本当に単なる道具でしかないということだ。今英語を勉強しているのは知識を蓄えたいからではなく、色々な人と意思の疎通をしたいから、同じ言葉を使いこなせるようになりたいからというシンプルな欲求からである。

まり、私は“伝えたい”と思っている。突き詰めると、結局そういうことになる。それなのに、どうして話す事や間違えを恐れるのだろうかと、今更になってそんな矛盾が滑稽に思えてきた。伝えたいから勉強しているなら、伝えようと働きかけなくては何もかも無駄になってしまうはずなのだ。でも、いつも恥ずかしいとか自分には出来ないとか、防御の方に余計な力を使って、喉まで出かけていたセリフを飲み込んでいた。いきなり力が抜けたかのように感じた。これからはもっと沢山喋って、もっと沢山間違えようではないか。そうした繰り返しから学べる事も色々あるのだ。


Mar 28, 2004

日に引き続き、もう1つ、小さな変化シリーズを。

転している時に、ふと思う。「みんな、いつになったら車のライトを点灯するのだろう?」と。夕暮れ時が近づくと、私はまず真っ先に車幅灯をONにする。そして少し薄暗さを感じるようになったら、ヘッドライトもONにする。しかし、その時になっても周囲はまだ車幅灯さえつけずに走っている。傾いた太陽が建物の陰に隠れ、ブレーキランプが明るく光るようになっても、まだランプをつけていない人もいる。車の輪郭が周囲の暗さに混ざり始める頃になって、初めてライトのスイッチを回す。こんな状態の中で運転する時はいつも、私は心の中で「ちょっとー、早くライト点けなさいよッ。危ないじゃないの〜!」と思うのだ。そう、これもきっと私が感化された事の1つといえよう。

転中にライトを点けるという習慣は、アメリカの生活で身につけられてしまった。向こうでは、例えば雨も降っていないような明るい曇り空の下でもライトを点けているのが普通だったし、夕方もまだ明るい時間からライトを点けていた。晴れ以外の日に高速道路を走っていると、対向車線を行く車のほとんどがライトをONにしている。運転免許を取る時に読んだ交通ルールブックにも「ワイパーを動かしている時(つまり雨の時)は常にライトを点けること」と書かれていたし、これは小雨の時でも変わらない。明るい空の下でライトを点けることを、私は最初こそ「アメリカ人は絶対に変だ!」と思っていたのに、今ではそうしない事に違和感を覚える。人の考えってこうも変わってしまうのかと、我ながらビックリである。

つてアメリカでライトを点けるのを変だと思っていた頃、アメリカ人は運転が下手で事故が多いから、ライトを点けることで相手の注意を喚起しているのだと夫が言っていたけれど、今になってそれは確かに当たっているかもしれないと思う。日本人は運転が上手い、というか、譲る心を持っている人がアメリカよりも圧倒的に多いのだ。レーサー気取りでびゅんびゅん突っ込んで来るような輩も少ないし、何かあってもすぐ「訴えてやる!」とは言わない。たとえ曇天の昼間に事故にあっても、「だってそっちがライトを点けてなかったからいけないのよ」などとは言われないだろう。だからこの先日本で運転をしていれば、そのうちまたライトを点けるはおかしいと思うようになるかもしれない。所変われば常識も変わるし、人は自然に適応していくのだ。


Mar 27, 2004

メリカを離れてから昨日でちょうど半年が過ぎた。この半年という長い時間のほとんどを、生活の建て直しやら子育てやらに奔走していたせいで、おそろしく実感の無いままに時間ばかりが過ぎていった。「え?もうそんなになる?」というのが何よりの感想だ。それと同時に、半年前までアメリカにいたという事実さえまるで嘘のように思えるほど、自然に時間が繋がっている。

々耳にする、「日本に帰って来れて本当に良かった、もうどこにも行きたくないわ」とか、はたまた「あー、アメリカに帰りたい!日本のこういうところが嫌い!」というような極端な感想もないままに、私は今まで「どこに行っても、そこなりの良さがあるもの」と受け止めてきた。日本からアメリカへ、アメリカから日本へ。どちらも大きな変化には違いないけれど、自分で言うのも何だけれど、どうやら自然に適応できているようだ。言葉でいうほど簡単ではないのは分かっているけれど、環境が変わったらその都度その場所に自分をはめ込もうとするのではなく、自分という中心はそのままで、新しい変化を身につけ、受け入れていけばよいのだろうと思う。



分自身の軸や根っこは変わっていないつもりでも、小さな変化は色々あるようだ。私の場合、例えばこんな事だ。別にどうってことないのかもしれないけれど、以前よりもお財布の中にあまり現金を持ち歩かないようになってきたのだ。アメリカの徹底したカード社会で生活したことで、私はすっかりキャッシュレスの簡単さや手軽さに慣れ親しんでしまい、この点だけは感化されてしまったようである。

本とアメリカではクレジットカードの普及具合や現金の持つ価値が違う。日本ではクレジットカードを使うのは現金の持ち合わせが無い時や大きな買い物をする時が多く、たかが1000円程度の買い物にはクレジットカードを使う人は少ない。それなのに、今の私はカードで払えるお店ならそうしようかなと思ってしまう。かつてはカードそのものを持っていなかったし、“買い物は現金で”という主義だったはずの私が、こんなことを考えるなんて。我ながら不思議だ。周囲からは何でもカードで支払おうとする変なmiyamuと思われているかもしれない・・・。


Mar 25, 2004

りきたりだった街の風景が少しずつ桜の色に染まり始め、いよいよ本格的な春到来!という感じになって来た。今週末にはお花見が出来そうな気配である。今年は絶対にお花見に行くぞと意気込んでいるだけに、週末の天気が気になるところだ。それでも、まだ満開というほどの開花ではなさそうだから、もしかしたら来週の週末まで楽しめるかな・・・?桜が咲いたら、しばらくは雨など降らずに長く楽しませてほしいと思う。

といえば、洋服の流行と一緒に、足元からオシャレを楽しむ人たちが一気に増えてきた。道行く人を見ても、ちょっと前まではブーツの人が多かったのに、今ではミュールやパンプスを履いた人達ばかりで、その足取りも軽やかである。ブーツを履いている人でも白やベージュなどの明るいコーディネートをしている。そして服装の色合いもすっかり春らしくなり、トレンチコートも、レイヤードスタイルのトップスも、柔らかい薄手のスカートも、きれいなパステルカラーなのである。このような光景を眺めていると、私も触発されて春物の服を買ったり、髪型を思いきって変えてしまいたくなってしまう。四季はみんな違った美しさがあるけれど、こんな風に心がウキウキするのは春ならではの感覚だ。

れにしても改めて感じるのは、やっぱり流行って繰り返すのね〜ということだ。今が旬のプリーツも重ね着も、ドットやボーダー、それに花柄などの柄が流行っているのも、なんとなく一昔前の流行を再現しているかのようで面白いと思う。時々母が「あんな格好、私の若い頃と同じよ。捨てないで取っておけばあんたたち(私と姉)にあげられたのにねぇ」などと言っているけれど、流行はいつも古き良きレトロさに今風のモダンな発想が加味されて、最新鋭として生まれ変わるのだろう。そのうちきっとケミカルウォッシュも、裾すぼまりの太いジーンズも、「センス最悪〜」と呼ばれた時代を脱して、再び脚光を浴びる日が来るはず・・・?と私は密かに予想しているのだが、どうだろう。


Mar 24, 2004

転中にラジオで流れていた曲を聴いていたら、それが昔とても好きだった曲だったことを思い出して、いきなりマイブーム(古い?)ならぬ、マイリバイバルブームがやってきた。あの曲をもっともっと聴きたい!という切なる衝動に駆られ、手持ちのCDやMDを掘り起こし、何度もじっくり聴き直してみた。

うしたら不思議な事に、昔聴いていた時よりも、今の年齢になって聴いた方が歌詞も音もずっと心に響いてくるように感じるではないか。その曲を聴いていた頃の若かった自分や、一生懸命になっていた物事や、忘れていた思い出の数々が、音楽と一緒になってじわじわと胸に溢れてくるのを感じた。懐かしくも大切な、色あせつつある記憶をもう1度味わうと、その頃の空気の匂いや空の色なども思い出せた。これぞまさしく胸キュン(ふ…古い?)である。

やすっかり大人になったというのに、こんなにも切なくて温かい気持ちになるのはどうしてだろう。音楽の持つ影響力はすごい。そういえば村上春樹の小説「ノルウェイの森」の冒頭に、BEATLESの「NORTHERN WOOD」が流れ、それを聴いた主人公が古い記憶の洪水に胸を打たれ、その切なさについ目眩をもよおすような描写があるけれど、そんな発作的な感覚に似ているかもしれない。テレビや音楽に泣けたり、感受性が豊かになってきたのは、着実に年をとっている証拠かもしれない。とりあえずこのブームはしばらく続きそうな気がする。また飽きるまで聴いて、飽きたら何年か熟成させて、忘れた頃にもう1度聴こう。その時はまた違った感じ方や味わいがあるはずだ。


Mar 23, 2004

に贈る誕生日のプレゼントを探しに、近所のデパートへ行った。特に「○○を買おう!」という狙いもないまま出かけたので、とりあえずも何かよい物はないかと店内を一周ウロウロして、ちょっと気になるものを見かけたら立ち止まるのを繰り返した。そうして目ぼしい物をいくつか候補にあげた後、再びそれを見極めるために売り場へ向かった。

終候補に残ったのは、折りたたんで携帯できる便利な買い物バッグと、涼しさを先取りのちりめん使いの扇子と、プリザーブド・フラワーのブーケだった。じっくり見てみると、バッグはちょっとナイロンが薄っぺらくて、プリントされた柄は意味不明の英文だったので、これが仇となりあえなく脱落した。ブーケはとても可愛らしく、枯れないというのも魅力的ながら、母の日も近いということで脱落した。そんな訳で、結局扇子に落ち着いた。扇子は、それを使わない人に贈っても無駄になってしまうアイテムだけれど、これなら使おうかな?と思わせるデザインと大きさが気に入った。昨年のように猛暑がきたら、きっと大活躍のはず。共布を使った携帯ケース付きだから、ちょっとお出かけなどの時に使ってもらえるかな?という期待を込めて、それに決めた。



子のディスプレイされた棚の前に立ち、色を比べていた時だ。突然、背後から声がして、見知らぬおばさんから話し掛けられたのだ。よく眠っていたminimuの満足げな顔を見て、つい話し掛けたくなったのだという。おばさんは子供の成長についてとか、自分の孫がどうしているとかを語り、私には「この調子で、頑張って!」と育児への応援をしてくれた。時間にすればほんの1、2分ぐらいだったけれど、いきなりだったのでちょっと驚いた。時に赤ちゃんと一緒だと、見知らぬ人から声を掛けられることがあるけれど、それにしたって普段は「かわいいわね〜」ぐらいの短いものだから、今日のように喋るという感じで話し掛けられるのは珍しい。

本の常識では、いきなり他人に親しげに話し掛けるのは敬遠されるもの。下手すると馴れ馴れしすぎて、ただの怪しい人になりかねない。通りすがりの人と当り障りのない話をするというのは、そういえばアメリカ時代にはけっこうあったなぁと、妙に懐かしい感じがした。


Mar 22, 2004

た寒さが戻ってきた。せっかく開き始めたと思ったら、桜には厳しい、三寒四温の今日この頃である。

事の時minimuにお粥を与えたところ、とりあえずムニュッとそのまま口から手に出してくる。それからしばし自分の口の中に入ってきた物が何なのかを確認した後、その手をゆっくりと口に戻して、もぐもぐねっちゃりと食べ始める。それだけではなく、途中で机や椅子に触れ、そのお粥まみれの手であちこちいじる。当然周囲はめちゃくちゃに汚れるけれど、デキル母はいちいち慌てない。私は「牛の反芻みたいね〜」と、のん気に見ている。

うやくゴックンと飲み下す音が聞こえたので、もう一口与える。ムニュッと出す。おいおい、それはさっき確認済みじゃないのかい!?と思いつつ、仕方なく見守る。ゴックンといったら、さらにもう一口。ムニュッ、ボトッ。・・・あ、今度は手から机にお粥がボトッと落ちた。と思ったら、minimuはそのお粥を目ざとく発見し、速攻で手捏ね開始。あらら、卓上餅つき大会かい?こりゃ掃除が大変そうだなぁ〜。しかしデキル母は慌てないのだ。再びスプーンを持ち、はい、あーんして。

かし。「う゛にーーッ」「バシッ!ぴゅー、べちゃっ。」(おたけびをあげたminimu、スプーンを右ストレート。匙の上のお粥はそのまま横っ飛び。そして壁に衝突したという様子をご想像ください。)「ひーっ、みにむぅッ!!」ついにデキル母は叫ぶのであった。平凡かつ、賑やかな、赤ちゃんがいるそんな日常。


Mar 20, 2004

れよあれよという間に、イラク戦争が開戦して1年が経ってしまった。私は1年前、カレッジの教室でよくこの話題をしていた。1人1人は戦争は避けなければならないと思っているのに、残念ながらその方向へ突っ走っている状態をひしひしと感じながら。

争が始まって1年が経った今、どうなっているかというと、本当に「どうなっているの?」と聞きたくなるような状態になっている。フセイン元大統領は捕獲(と書くと動物みたいだけど)されたとはいえ、依然として大量破壊兵器は出てこないし、イラク国内は混沌としている。度々耳にする爆弾テロ事件やそれによる死傷者も、本来ならば大きく取り上げられるべきなのに、あまりにも頻繁に事件が多発しているために、一つ一つの扱いがさも小さな事であるかのように報じられる。

していまだに対岸の火事であるかのような、日本の風潮もいかがなものか。ほんの少し前にイラクへの自衛隊派遣についてあれほど論議を交わしていたと思いきや、今はそういえばそんな話題もあったねというような感じで、半ば忘れ去られているかのようだ。次にこの話題が大騒ぎになるのは、派遣されている日本人の誰かが何かのトラブルに巻き込まれ、怪我や、最悪命を落としたた時だろう。一度そうなれば、あとは蜂の巣をつついたかのようなメディアの総攻撃が始まる。既に犠牲になったアメリカ兵が何人いるのかを考えれば、そんな悲劇が起こる日もそう遠くないように思えて、ただ無事を祈るしかないのだが。

セイン政権が打倒されてからというもの、ブッシュ大統領は事あるごとに「イラクは自由だ」と演説で宣言している。確かに、そこにフセイン政権は無くなったけれど、私にはそれが本当の自由であるとは思えない。もしも暴動や殺戮が繰り返され、常に危険が隣にあるような状況にいたら、私は決して「やった〜、私は自由になったんだ」などと言えないだろう。自由というのは、緊張感や恐怖心から全ての人が解放されてこそ存在し得るものだと思う。

reedomの国アメリカで彼らが言う「Freedom」と、イラクについてブッシュ大統領が語る「自由」はまったく別物であるし、いかにブッシュ大統領に「自由だ」と言われても、アメリカ人は誰も自由を求めてイラクに行きたいなどとは思わないだろう。結局言葉は同じでも、イラクの自由はただ異質の、言葉だけの自由でしかない。戦争が始まった時はすぐに終わると楽観的に予想され、後に3ヶ月で終わるとか、半年で終わるとか引き延ばされ、もう1年。いつまで今のような不安定な状況が長引くのかも分からない。泥沼に足を突っ込んでしまって先が見えない。


Mar 18, 2004

でに月に一度のお楽しみとなった、ドイツ料理教室。今日のメニューは2品、「Lauch-Rollen」というネギを使ったおかずと、「Quark-Apfelstrudel」というりんごのデザートである。英語では多分、アップルシュトルーデルと呼んでいたと思う。

ザートに時間が掛かるため、今日のネギ料理はとても簡単なものだった。主材料もネギとハムとチーズだけというシンプルさ。それなのに、かなり美味しかったので、ちょっとご紹介をば。焼きたてはネギとチーズがとろけ合って、包んだハムもなかなか香ばしい。ネギが苦手な人でもこれなら食べられそうだし、別にオーブンがなくてもトースターや魚焼きグリルでも出来そうだ。

材料(4人分)
ネギ 2-3本
コンソメ 1個
マーガリン 大さじ3
ハム 12枚
スライスチーズ 12枚
小麦粉、調味料少々
作り方
1 ネギを洗って、白い部分を10cmの長さに切る。葉の部分は小口切りにする。
2 ネギをマーガリンとコンソメと一緒にやわらかくなるまで煮る。
3 ハムの上にチーズを乗せたら、ネギの長い部分を巻いてロールを作る。
4 焼き皿にならべて煮汁をかけたら190℃のオーブンで5-10分焼く。
5 残りの煮汁に水溶き小麦粉を加え、調味料で味を調えてホワイトソースにする。
     That's all, ENJOY!

んごのデザートは、薄く延ばした練りパイ生地にりんごとサワークリームのフィリングを巻き込んで焼いた、りんごの巻きタルトのような代物である。それほど砂糖を使っていないし甘くないので、これにアイスクリームを添えて食べる。ドイツでは御馴染みの味なのか、先生もお手伝いの人たちも揃ってウンウンと頷きながら味わっていた。



理教室には12月から通っているので、今回が4回目。その度にいつも疑問に思うのは、後片付けをする人が大体決まっているということだ。作った料理を食べ終わってから食器も下げずに雑談に興じているばかりの人もいれば、自ら立って洗い場に向かう人もいて、それが毎回同じ顔ぶれになっている。洗い場にいるのは料理教室が開講された時から通っているという、ベテランさんばかりなのだ。もうお子さんも成人しているような世代の人たちである。だから小さな子供連れの人のように子供に手がかからない分、片付け仕事が出来るのだろうけれど・・・。

れでもなんだかおかしい。限られたスペースしかない洗い場に立てるのはせいぜい3人ながら、多くの人が「それじゃ、お先に」と言って帰り支度を始めてしまうのには「???」となるのだ。私は「遠足は家に帰るまでが遠足」という風に考えているので、「料理学校も片付けが終わるまでが料理学校」だと思う。他の人たちは、少しぐらい手伝いをしようという発想に至らないのだろうか。とはいえ、各いう私もminimuから目を離せないので、あまり台所に付きっ切りになれない。それでも前回はあまりにも申し訳なく感じ「いつもすみません。本当ならばお手伝いしなければいけないと分かっているのですが」と、片付けている人たちに声をかけた。すると、その人たちは「いいえ、お子さんが小さいと大変ですからね、いいんですよ」と言うではないか。ほんとに、スミマセン・・・。

なみに今日は、いつものベテランさんグループが別の日だったので、台所の入り口に柵替わりの大きなカゴを置いて封鎖して、minimuを遊ばせつつ、私も洗い場に立った。大勢分の食器と調理器具を洗って片付けるのは、妊娠しておなかの大きな人と、3才の子供と来ている人、そして私の3人。なんとか洗い物が終わりかけた頃に、玄関の方から「お先に〜」と雑談組が帰っていく声が聞こえた。あの人たちは子供も学校にいて、自分の身一つだけで参加しているはずなのに。どうなっているのだい?


Mar 17, 2004

日のConversationの時に、グループの一人が先生にこう質問をした。「どうして外国人はウインクをするんですか。」そういえば先生は時々ウインクを交えて会話をするよなぁと思っていたら、先生はウインクは仲間内の合図のような感じで、“ネッ!”というよなノリでパチっとするのだという。そして「日本人はなんでしないの?」と聞き返されてしまった。・・・う〜ん、日本人はまず普通にウインクはしないよねぇ。

もそも私はウインクがうまく出来る日本人を一人だって知らない。私だって昔は鏡の前でウインクの練習ぐらいした経験はあるが(笑)いざ実践にうつしたことなどない。というか、片目だけ自然にパチッと閉じられないので、まったくお話にならない。顔が引きつって見るからに怪しい人になること請け合いである。

国人から見て、日本人の最初の印象は「冷たい」と思われるらしい。冷たいと思われる理由は、顔の表情があまり変化しないことや、身振り手振りをあまりしないことや、抑揚の無い話し方などだという。さらに、日本人は他人と目が合った時にはすぐに視線をそらすけれど、これも人と目が合った時にニコッとする習慣がある国から来た人には冷たく感じる仕草の一つだそうだ。ウインクをしないというのも付け加える事にしましょうと冗談で言ったら、ちょっとだけウケた。

う、ウインクを含めて日本人は顔をあまり活発には動かさない。“あいうえお”だってほとんど口を動かさずに言える。英語を母国語とする民族と比べると、日本人の顔の筋肉は非常に未発達である。顔の筋肉は生まれてから言語を習得するまでの間に自然に身についていくので、口を大きく動かさない種類の言語を喋る日本人は筋肉も鍛えられていないのだ。(だからもし英語の発音を良くしたいのならば、まず頬や顎を鍛える練習をするとよい。ハキハキと口を動かして、ゆっくり話せば少しずつ変化が現れる。お試しあれ。)

インクの話から日本人の印象の話に脱線してしまったけれど、初めこそ「日本人は冷たい」と思った外国人でも、滞在期間が長いほど実際の人々の姿に触れる事が多くなるので、その印象が表面上の勘違いだということに気がつくそうだ。日本人は話してみれば人の話をきちんと聞くし、困った時は親身になってあれこれ助けてくれるから、冷たいと思っていた分だけ余計に温かみを感じられるのだという。お国が変われば習慣も違って当たり前とはいえ、やっぱり日本人は冷たいと思われるのは残念だと思うし、ここはひとつ自然なウインクでも習得してみようかな!?


Mar 16, 2004

まっていた写真の整理をしようと、アルバムと写真の束が入ったダンボール箱を持ち出した。このダンボール箱はかつて日本からアメリカへ渡り、3年間もの期間をさらに熟成されてそのまま帰国したもので、思いっきり引越し屋の名前が書いてある。当然ながら、かなり重い。箱に書かれた行き先のTO:NYC、TO:TOKYOという往復に歴史を感じる。帰国前に半分ぐらいは整理したと思っていたけれど、どうやら甘かったらしい。

つも思うことながら、写真は現像してからすぐに整理してしまわないと、後で片付けるのはけっこう面倒くさい。そのうちにやろうと思うと、なかなか“そのうち”はやって来ないで、写真ばかりが溜まってしまうのだ。その僅かな手間が積もりに積もり、今や時系列もばらばらの写真が混ざり合って大変なことになっている。minimuが生まれてからというもの写真を撮る機会が多くなったこともあって、そろそろ片付けなければまずいと、私もようやく重たい腰をあげた。

真の束だけでも広辞苑のように分厚い。それを時代とジャンルごとに分類し、アルバムに入れるだけ。書き出してしまえばとても単純な作業なはずなのに、量が半端じゃないので難航してしまう。よく写真を現像するともらえるポケットアルバムを使って中途半端に整理してあるのもあって、それを全て取り出して、また並べ替えての繰り返しである。おまけに写真を触ろうとするminimuを遠くに追いやって、おもちゃで気を惹いて、いらないフィルムケースを与えて・・・。まったく、途中でやる気がなくなってきたぞ。約2時間後、それでもなんとかアルバム2冊分は整理がついた。今回は何枚もある似たような写真や、あまりにも写りの悪い写真をキッパリ割りきって捨ててしまったので、大分スリム化することが出来た。でもまだ折り返し地点・・・。ひぃ〜。

ころで、学生の頃、私には実は写真を撮る趣味があった。今となっては懐かしいけれど、総マニュアルのレトロな一眼を父親から借用してはぶらぶらと被写体を探し歩いていた。でも後に超小型APSカメラを買ってしまってからは、ほとんどそればかりを使うようになり、撮影散歩も一過性の趣味どまりになってしまったのだが。・・・で、今度はデジカメの登場である。今やフィルムも絶滅しつつある。ついにデジカメを使うようになって、私は撮影データをパソコンにコピーするようになった。そうすると、だんだん現像をしなくなってきて、撮影枚数はあっても現像して手にとれる写真は少ないという状態になってきている。最近になって「それってちょっと寂しくないか?」と気になりだし、デジカメ写真もせっかくだから現像するように心がけている。・・・で、この話は振り出しに戻るのであった。


Mar 15, 2004

曜日は英語の日。レッスンが終わった後で、一緒のクラスで勉強している友達を自宅に招いてお茶をした。彼女も1歳の子供連れで来ていて、しかもアメリカに住んでいる時に出産したというのも同じなので、そんな偶然なども相まって親しくしている。食事をしてからデザートとお茶をする間中、ずっと2人の子供達が近くでたわむれては何かしてくる。赤ちゃんせんべいを食べながら、ベタベタになった手であちこちを触りまくっていたと思ったら、キッチンの棚から鍋の蓋を取り出してきたり、オーブントースターの中に靴下を入れてみたり。そんな動きにいちいち「あ〜っ」と駆け寄っていると、時間はすぐに過ぎる。

「お昼頃から夕方までの4、5時間を子供と一対一で向き合っているのと、こうして友達と一緒になって子供に構っているのとでは、同じ時間の“育児”でも気持ちが違うのはなんでだろうね?なんだかいつもより楽しいし、気楽だよ」と言われた。このセリフ、なんだか聞き覚えがあるぞ・・・と思ったら、ついこの間私が姉の家に遊びに行った時に言ったセリフと同じなのだ。

んなに子供が好きでも、いつも一対一で“終わりのない追いかけっこ”をするのは味気ないし、何らかの変化が欲しいと思う。それに、大人が子供と同じテンションで突っ走るのにはかなりのエネルギーが必要だし、ふと我に返ると息抜きが欲しくなってしまう時がある。だから誰かと一緒になって「ああだこうだ」と言いながら、子供のするおかしな仕草に一緒に笑いながら過ごす方が、ただゴロゴロとしているだけでもずっと充実しているように感じるのだ。

ンプルなことで、趣味でも仕事でも何事をする時でも、同じ時間を共有する仲間がいるのは嬉しいし、それだけで楽しさがグッとアップする。もちろん大人だけでなく、子供にしてみてもきっと同じことが言えるのではないかと思う。色々な子供達と一緒に触れ合ったり遊んだりするのは大切なことだろう。たとえおもちゃを取り合うケンカをしても、同じ部屋の中に自分と同じ仲間がいることで、何か学んでいくことがあるだろうし、喜怒哀楽を感じ取ることで情緒豊かな人間に育ってゆくはずだ。・・・それじゃ、また一緒に遊ぼうね。


Mar 14, 2004

っかくの日曜日だというのに、まだまだ続く歯医者通いである。今日は小さな虫歯を1本だけ、日帰りで治療した。普通の虫歯だったので笑気ガスは使わない。そうしたら、治療が終わった時の疲れ度合いが全然違っていたので驚いた。普段はこんな風に心身共に疲れていたんだっけ?という感じがして、先週の快適なひとときが魔法のように思えてしまったのだ。

気ガスを使った治療の快適さを一度覚えてしまうと、あまりの楽さについ依存してしまいそうになるというのもよく分かる。それでも一時的に精神的な負担や苦痛を取り除けるのならば、そういうオプションを利用するといのも手だろうけれど。ちなみに私が次に笑気ガス体験をするのは、きっと他の親知らずを抜く時だろう。残り3本もあるし、そのうち2本は完全に横向きになって埋まっているので先は長そうだ。ああ、確かに苦痛が無いのは良いけれど、早く全て終わらせて気楽な週末を過ごしたいものだ。何にせよ1番なのは、歯医者自体にお世話にならないということなのだから。


Mar 12, 2004

うすぐ出産予定日を迎える従姉に贈るお祝いを探しに、久々に姉と二子玉川の高島屋へ出かけた。姉と私には既に子供がいるので、また身近なところに子育ての仲間が増えるようでお互い楽しみにしている。それにしても去年の5月に生まれたminimuと、これから3月に生まれる従姉の赤ちゃんが一緒に学校に通いだす年齢を迎えるだなんて何だか信じられない。大人になってからの1歳違いはたいした違いではないけれど、赤ちゃんが10ヶ月も違うというのは全然別なのだ。

を戻して。いつも二子玉川へ行く時はなんだか身構えてしまう。別に萎縮することもないのだが、大きな欧州車が並ぶ駐車場は圧巻だし、そんな車をごろごろ転がして高島屋へ集結するニコタマダムの実態が気になってしまう。そういえば今日エレベーターのドアが閉まる前に乗り込んできたマダムが、子供がなかなかやって来ないのを急かす時に「○○ちゃん、皆さんをお待たせしているんだから、早くこちらにいらっしゃい。」と優しい声で呼んでいたけれど、私の近所のスーパーで聞こえてくるのは「○○ッ!早く来なさいっ!置いてくわよっ」というキンキンした怒鳴り声だから、はっきり言って空気が違っている。

なみにそのマダムは見るからに手触りの良い白の半袖ツーピースに、某ブランドCのバッグ、某Rの光る石付き(笑)腕時計だった。(別に私が一瞬でそこまでチェックできたわけではなくて、その人のチラ見せ具合が絶妙だったのだ。)さらにお子様も、全身ピンクのブランド洋品だったし、親子揃ってすっかり春を先どっているかのよう。まるでピーコのファッションチェックものぞむところですわ、という感じ。または、朝の情報番組のファッションのトータルプライス予想クイズでも可。私の着ているものとは一桁(もしや二桁か?)違っていそうだけど、ちょっとそのトータルプライスが見てみたい・・・かも!?その他にも、いたる所で“マダム・春の最新ファッション夢の競演”を目の当たりにし、帰る頃にはもうお腹一杯である。

りあえず従姉には素敵なギフトを買うことが出来たので、今度は地元のデパートにでも行こう。妙に落ち着いた気持ちになること請け合い。たまに行くからこそ良い刺激をもらえる、玉川高島屋なのだ。高級フレンチのフルコースを頂いた翌朝、お茶漬をすすりながら「ハァ〜、やっぱり日本人はコレよぉ〜」と言うみたいなものかもしれない。(よく分からない例で、失礼!ま、いいか。)


Mar 11, 2004

となくテレビを見ていたら、衝撃(笑撃ともいう)のCMを発見!「雪印トルコ風アイス」という、一体何がトルコ風なのか、名前からして怪しい商品のCMだ。とにかく主演:松井秀喜ってのが最高です。(注・トルコ風アイスは練って食べるらしい。トルコのアイスって本当に練るのだろうか?)とりあえず動画を発見したので、興味がある方はコチラを要チェック。笑えます。

、何が笑えるって、松井の演技もさることながら、今をときめくメジャーリーガーの松井が、あの名門NewYork YANKEESのスター選手が、あんなにコミカルにCMに出ちゃうのね〜ということだ。昨シーズンが終わって、一時帰国をしていた間、松井は沢山のCM撮影に臨んだことだろう。しかし、彼はどういった基準で出演CMを決定しているのだろうかと思うほど、トルコ風アイスのCMは可笑しい。というか、スターになっても庶民派である松井ならではのおいしいキャラ全開といった感じだ。

じメジャーリーガーとして、もしトルコ風アイスがイチロー主演だったら・・・と一瞬思ったが、それこそ絶対にないだろう。あのCMは松井だからこそ有り得るもので、イチローには出来ない。何ていうか、キャラクターというか持ち味が違いすぎる。イチローは常に爽やかでなければならない。彼のイメージでは炭酸飲料ぐらいの爽快感が必要なのだ。まったりとアイスクリームを練り練りするなんて言語道断である。今や良い意味で、サービス精神旺盛な松井が前よりもずっと魅力的な人に思える。トルコ風アイスのCMは、私の中で松井の株がまた上昇してしまう決め手となった。

本では人気のある有名人は次々にCMに起用されるので、CMに出演している本数でその人の人気度が推し量れるけれど、アメリカでCM出演というと二流のやる事というイメージが強い。日本とアメリカではCMという仕事の価値が全然違う。まずCMへのお金のかけ方が違うから丁寧さにも差があるし、タレントへの出演料が全然違う。それにケーブルテレビのチャンネル数が多いため、地元密着型のCMの比重が高いのだ。(ローカルなレストランやスーパーのCMなどは従業員が出演していたりする。)だから、日本のテレビCMにハリウッドスターが出演していることなど、アメリカ人は知る由も無い。そんな訳で、松井のトルコ風アイスのCMをヤンキースタジアムで流してみたらどうだろう。ついでにスタジアムの売店でCarvelの横で売ってみたりして。お茶目な奴として、ますますNYに定着する事間違いなし!


Mar 10, 2004

が強くて、花粉症でなくても目・鼻・喉が辛い。コンタクトがゴロゴロするし、鼻が痛いし、声が枯れるし・・・これじゃ本当に花粉症の人は外に出るのも嫌になるだろう。せっかく天気が良くて暖かくても、風が強すぎるのは困り物だ。私がベランダに干した重たいラグも竿から落ちる寸前で、せっかく洗ったのに埃っぽい。お向かいさんの衣類はハンガーごと吹き飛ばされている。並べてある自転車もバタバタとドミノ倒し。風なんぞには負けじとなんとか出かけても車が横風に煽られる。おまけに駐車場が屋上しか空いていなかったせいで、降りたとたんにせっかくセットした髪型もぐしゃぐしゃ、メイク台無し。よろめきつつ建物に逃げ込んで、鏡に映った自分を見たら、あらま髪の毛食べてるよ。とほほ。

UEEN(クイーン)のベストアルバムが売れているらしい。今クールの月9ドラマの主題歌だからとか、その主演がキムタクこと木村拓哉だからとか色々言われているけど、そんなこと関係なくてもQUEENのベストなんだから売れて当然じゃーっと思う。私だってQUEENの現役時代は知らないけれど、それでもラジオやCMで耳にする音楽は知っていたし、初めて「ボヘミアン・ラプソディ」のプロモーションビデオを見たときは、約20年前の音楽なのにちっとも色あせない格好よさに感動したのだ。だから、誰もが聞いたことのあるような有名なナンバーを凝集したQUEENのベストアルバムなら売れて当然だと思うのだ。なんだかんだ言って、本当は私もCDが欲しいのに、タイミング的にブームに乗ってるミーハーみたいで嫌だなぁ。ドラマも見てないのに・・・。

もドラマのおかげであるかのように歌手が一時的にもてはやされるのは、日本のメディアシーンによくある事ながら、なんだかただの一発屋みたいで扱いが安っぽい。でも、今回のQUEENにしたってドラマと思いっきりタイアップされているし、ベストといっても日本で編集されたCDだから、結局はキムタク効果に依存してのヒットなのかも・・・。結婚しても、子供が出来ても、カリスマ的アイドルパワーは衰えず。考えてみたらそれもすごい。


Mar 8, 2004

inimuが部屋の中をハイハイで移動するようになったので、リビングの配置を見直している。赤ちゃんはよくバランスを崩して頭から転ぶし、手にした物は何でも口に持っていくので、角の尖った物や口に入れて危ない物は低いところに置いておけない。今後ハイハイから立ち上がって歩きだすまでの成長に合わせて、ますます好奇心といたずらはエスカレートしていくだろうし、よく耳にする「生活感の無い暮らし」や「子供がいても整頓された部屋」の実現はなかなか難しそうだ。それでもなんとか安全で快適さをキープしつつ、少しはオシャレな空間を作り出せないものかと考えている。

本的に部屋の中にあるものは変えられないのだから、あとはどのように置き、隠し、飾るかを決める。家具の配置はパズルの要領で面白い。例えば額縁一つにしても、かける壁の高さや位置によってガラッと雰囲気が変わってしまうし、それを部屋のあらゆる角度から見たらまた違った雰囲気に見えたりするので、あれこれ試行錯誤しながらの作業になる。床面積を広く取らないと部屋が狭く見えてしまうけれど、収納は限られているし、かといって床に物が散乱しているとminimuに狙われてしまう。(狙いを定めた時のハイハイは恐るべき早さで面白いけど・・・。)そんな訳で、私の目下の悩みは模様替えで、気転の効いた知恵や使えるアイデアを探して本屋の収納本やインテリアショップをチェックする日々が続いている。


Mar 7, 2004

日の親知らずの傷を消毒するために再び歯医者へ行った。出血は止まっているし、傷口も炎症を起こしていないようで、とても順調に回復しているという。当然歯茎に穴が空いている訳なのだが、その穴をそっと舌で触ると、ぷるぷるして柔らかい。たとえ傷の治りは早くても、完全に穴が塞がって平らな歯茎化するには何ヶ月もかかるらしい。細かくなった食べ物が引っ掛かって隣の歯が虫歯にならないように、うがいや歯ブラシなどのお手入れをしっかりしないといけないそうだ。

の上では春で、日中はかなり暖かくても朝晩は寒いという3月。この頃になると、私はいつも着るものに悩む。朝に選んだウール製の服で外に出かけると、よく途中で後悔させられる。デパートでエレベーターを待っている時、ふと隣に立っている女性の服装を見てみる。するとその人は明るい色合いのスカートを着ていて、その薄手の布がふんわりしているのだ。私にはこんな“春を先取り”の人たちがやけに眩しく見えて、自分の格好がやけにむさくるしいものに思えてしまう。こんな冬っぽい格好して来るんじゃなかった〜と感じるのだ。

して今日、またしても厚く着込んで失敗した。車の中は温度の上昇が激しいので、強い日差しで一気にのぼせてしまったのだ。タートルネックのセーターがシートベルトによりさらに密着して、もこもこ具合に汗ばんで喉が渇く。運転席側が日向になる向きになると、なんでこんな服を着て来てしまったのだぁーと後悔ひとしお。この失敗が決め手になって、まだ使うかもしれないと思ってしまいかねていた厚手のコートとブーツを片付けた。あとは防虫剤とウール用の洗剤を買ってこよう。


Mar 6, 2004

知らずの抜歯をしに、朝イチで歯医者に行って来た。ふ〜、ひとまず終わったわい。イエーイ!お疲れさんさんサンシャイン♪・・・ん?前回の日記ではあんなに怖い怖いと大騒ぎしていたmiyamuが、なんだか余裕げ?とお気づきの方は鋭いです。実は私、驚異の体験してしまいました。その名も、笑気ガス吸引鎮静法っ!!

前からして楽しげな、ちょっと怪しいこの治療法をご存知の方も多いとは思うけれど、実際に体験されたことのある方は少ないかと思うので簡単に説明すると・・・。笑気ガス吸引鎮静法とは、リラックス効果のある気体の一種“笑気(亜酸化窒素:N2O)”を吸引することで、治療に対する極度の緊張感や恐怖心を取り除くことができる、ガスを用いた麻酔のようなものである。ただし笑気ガスには痛みそのものを取り除く効果は無いので、注射での局所麻酔も併用する必要がある。つまり痛みは確かにあるのだけれど、それが全然気にならない精神状態になるという感じだ。

際に笑気ガスを試すかどうか、昨日の夜にインターネットで色々と調べてみた。そこで気になる安全性や方法、さらに保険適応かどうかなどを見て、とりあえず特に目立った問題がなさそうなのを確認した。しかし、笑気ガスの気持ち良さはクセになるというような麻薬的な魅力(!?)があるという裏情報もチラホラ見受けられたので、これってどうなんだろう?と悩んでしまった。ちょっと試してみたいという好奇心と、怖い物見たさとが相まっている心理状態である。結局あとは治療が始まる前に先生と相談してから決めるという事にした。私の通う歯科医院の待合室には「思いやりの治療・笑気ガス吸引鎮静法」というような内容のポスターが貼ってあったし、きっと相談に乗ってくれることだろう。

して当日。診察室に通され治療台に乗ってから、「それでは今日は親知らずを取りましょう、体調はいかがですか。」と、いつものように先生が私に尋ねてきたので、私は「先生、笑気ガスってどうですか。よさそうだったら試してみたいんですけど・・・保険で大丈夫ですよね?」と言ってみた。自分から進んでリクエストする患者も珍しいのか、先生は一瞬「おや?」という表情をして、「痛みを取り除くという訳ではないので、あくまでも効果には個人差がありますが(効きますよ)。もちろん、保険も効きますよ。」と答えてくれた。ひょっとして準備が面倒なのかなぁ?と、私の親切心が顔を出しかけたのだが、もしこの機会を逃したらきっと二度と笑気ガスを吸うチャンスは無いように思えて、「じゃぁ、お願いします」と笑気ガスを使う事をを決めた。だって、楽しい日記のネタになるんじゃない?という下心も少々・・・。

気ガスを吸引する手順は以下のような感じである。
まず、ゴム製の三角形の鼻マスクを被せて、普通に鼻呼吸する。(注:鼻が詰まっている時は使えない。)マスクからは最初に酸素のみが出てきて、次第に笑気と混合されたガスになっていく。酸素のみの時は呼吸がしにくいような気がしても、笑気の濃度が上昇してくると自然にゆっくりした呼吸ペースが出来てくる。そうして鼻で深呼吸をしているうちに、2〜3分で効果が現れる。

こから本格的に治療が始まる。ちなみにガスが効いている自覚症状はすぐに分かり、身体がボワーっと熱をもってくるような感覚がある。まるでアルコールでいい気分になっている時のよう、はたまたお布団に入って眠りに落ちるギリギリのところにいるかのように感じる。それでも意識もあり会話も出来る。注射が痛いということも分かる。それなのに、痛さが心にまったくこたえないし全然怖くない。・・・というか、どうでもいいの、そんなこと!だってだいじょーぶなんだもん。は〜ビバノンノン♪というような気分になるのだ。

第に笑気ガスの効き目が面白くて、そんな自分に笑えてくる。ああ、だから“笑気”っていうのかぁ〜う〜ん粋なネーミングねぇとか、頭の中にはどうでも良いことばかりが浮かんでは消えて行く。これって、考えようによってはかなり危険な状態だ。それでも私は正気でいられるように、どんなに笑気ガスが効いてもきちんとした患者で居続けてやるぞという心構えをしていたので、アホな心を押し殺してクールに装っていた(つもり)。そうそうアルコールといえば、お酒に強い人は笑気ガスの濃度が低いと効果が現れにくいそうだ。私に限ってはその心配はまったく無いが。

療中は目を閉じているのが普通だとはいえ、目を閉じて笑気ガスを吸引するとすぐに眠りそうになる。ポカポカ陽気の南の島で日光浴をしているような幸せ気分になってしまうのだ。完全に遠い世界に旅立ってしまいそうだ。力が抜けて膝が開いてきた。なんだか気持ちがいいぞ。・・・これはまずい。私はすぐに目を開けて、そこが歯科医院の治療台だということを確認した。現実感を取り戻すには目を開けるのが1番効果的だ。

の治療が終わったのは、笑気ガスの吸引を始めてから僅か5分後の事だった。親知らずは簡単に抜く事が出来たので、そのあっけなさに驚いた。もちろん局所麻酔の強烈な深い感触とか、歯の根っこを脱臼させる感触だとか、親知らずを引き抜かれる感触はあった。それでも、一瞬たりとも眉をしかめたりせずに、恐怖を微塵も感じないまま快適に治療を受けられてしまったのだ。先生から「終わりました」という声が掛けられた時に、私は思わず“あ〜、今度は笑気ガスを止められるのが逆に怖いっ”と感じてしまったほど。信じられない。

療が終わったら再び吸引を酸素に戻していき、最後にマスクを外して普通に呼吸をする。笑気ガスを止めてしまえばほんわかした感触はすぐに抜けてしまう。後遺症もなく、ほんの少しの休憩で帰ることが出来る。私は1〜2分後、先生にお礼をキッチリ言って、まっすぐ歩いて待合室に戻った。さすがに車の運転は30分待ってみたけれど、事後報告としては全然問題なさそうである。

後になり麻酔が切れるまで、私は親知らずを抜歯したことなど忘れ去るほど楽天的な気分で時間を過ごした。口の中の出血が止まるまでは血の味がするけれど、そんなことは些細な事に思えた。なんというかとても簡単すぎる上、あまりの効果に本当にびっくりした。最高だよ、ビバ・笑気ガス!ふう、感動のあまりとても長い日記になってしまった。結論、もしもどなたか大きな歯科治療を受けられることがあったら、笑気ガス吸引鎮静法をお薦めします!miyamu渾身の体験談でした。


Mar 4, 2004

後になって出かけようと思ったら急に空が暗くなり、ポツポツと雨が降り出した。遅い、寒い、雨と3拍子揃って、いきなり外に出る気力がなくなってしまった。冷蔵庫と非常用便利食材の入った棚をチェックして、今日の食材を探す。出かけなくても何とかなりそうなのを確認したら、着替えもせずにだらだらモード突入。付けっぱなしのテレビ、コンピュータ、お茶とお菓子・・・それにminimuとゴロゴロ。まさにcouch potato状態の1日である。



末に恐ろしいイベントが私を待ち受けている。それは、親知らずの抜歯という大(?)手術なのだ!私はこれまで数々の歯科トラブルを経験しつつも、歯を抜くというのは生まれて初めての事で、今からすでに緊張している。これであと歯列矯正や入れ歯でもすれば、歯科治療のプロフェッショナルに仲間入り出来よう。

っきり言って世の中には親知らずを抜いていない人も沢山いると思うし、私だって自分からそんな事をしようとも思わない。もしかして、親知らずは火山のようなものではないだろうか。休火山がいざ活動を始めると地震や噴火への恐れが出てくるように、親知らずも痛みさえ起こらなければ抜歯とも一生無縁で済むはずなのだ。歯科医師が抜いた方がいいと勧めるのはいつもの事だから、アドバイスも聞き流していたし、ほとんど歯茎の中に埋まっているものを掘り出すだなんて、考えただけで“ウエ〜”だ。それなのに、この期に及んで何故?

由は簡単。親知らずが虫歯になっているからだ。何年も前から私の親知らずは中途半端に顔を出していたけれど、親知らずと隣の歯には高低差がある。そのせいでいつも親知らずの上に米粒やナッツやおかずなどが引っ掛かってしまって、舌で取ろうとトライしては、決まって舌がつりそう(分かる?)になっていた。しかしその苦労も虚しく、表面がすでに黒ずんでいつしか虫歯になっていたのだ。悲しきかな、このまま無視していたらそのうち年をとって、いつか治療が必要になった時に体力がなくなっているのがオチだというではないか。そして私は重い腰をあげた。予約は朝の10時、待合室で憂鬱にならないようにと朝イチをキープした。

は私が1番恐れているのは、治療そのものというよりも治療後の状態だったりする。顔がはれて頬が四角くなったり、抜歯後の穴にさらにお米が詰まったり、傷口が炎症を起こしたりするのは目に見えているし、麻酔が切れたときの痛みだって大変だろう。しばらくは物が噛めないし、会話も外出さえも危ういのではないだろうか。考えても仕方ないのに、ネガティブな発想ばかりが頭の中に広がる。明日はこれが最後とばかりに、硬い物や刺激物や美味しい物を猛烈に食べてやるぞーっ!って・・・歯医者の前に、胃がこわれるか。とりあえず、土曜日は頑張りますので応援してください。ああ〜コワイよ〜〜。


Mar 3, 2004

月3日は雛祭り。近くの果樹園の前を通ったらちょうど桃の花が咲いていて、鮮やかなピンク色がとてもきれいだった。予期せぬところで桃の節句を味わえたようで、何だかお得な気分である。子供の頃は雛祭りが近づくと、雛あられを買ってもらったり雛人形を飾ってもらうのが嬉しかった。よく雛人形をいつまでも飾りっぱなしにしていると結婚が遅れるだとか言うけれど、私も姉も一応嫁げたところをみるとどうやらそれは迷信らしい。minimuは男児なのであまり関係無いか。

の頃道行く人が鼻まで覆う大きなマスクをしているのを目にするようになり、厄介な風邪でも流行しているのかと思っていたら、それは大きな勘違いだった。花粉症の皆さま、大変失礼いたしました。私は花粉症を経験した事がないのでその辛さが分からないけれど、格好良く着飾ったお姉さまが、せっかくのオシャレが台無しの巨大マスクをして歩いているのを見ると、相当大変なのだろうなぁと思ったりする。今や多くの日本人が悩んでいる症状なのだし、もう少し花粉症の季節と上手く付き合えるように色々なデザインのマスクを販売したらどうだろうかと思ってしまう。意外とヒットするかも。

語上達の上り坂が緩やかになり、限りなく平行線上に乗ってしまった感がある。この状況を脱するための最大の問題は語彙のなさだと自覚しているので、長いこと中断していた読書を再開する事にした。しおりが挟まっていたページを開いてみたけれど、これまで読んだ部分の内容が薄れてしまっていたので結局最初から読み直している。のんびりペースながら、辞書を片手に楽しく読んでいる。やっぱり勉強だって楽しくなくては味気ないのだ。

うだ、辞書といえば!私が英語の勉強を始めてから今までずっとお世話になっていた電子辞書がついに壊れてしまった。辞書引き機能には問題がないのに、画面が故障して文字が上手く表示されなくなってしまったのだ。苦楽を共にした電子辞書だけに、使い物にならなくなってちょっと悲しい。言いたい事をすぐに調べて会話を円滑にするためにも、電子辞書は必需品なのだ。今は夫のものを貸してもらっているので、早く買い直さなくては。次はどこのメーカーのを買おうか、とりあえず電気屋に調査しに行ってみよう。


Mar 2, 2004

日に引き続き今日も寒い。今更やって来た寒さに、着る物を選ぶのも戸惑ってしまう。真冬仕様のコートとブーツは手入れをした後で片付けようと思っていたのに、まだ出しておいたほうが良さそうな気配だし、セーターをしまうのも気が早そうだ。おまけに自分のことだけでなく、minimuに着せる物でもけっこう悩んでしまう。子供の体温調節は大人以上に気をつけておかないと、あっけなく風邪などひかれてしまう。外が寒いからとモコモコに着込ませても、一度建物の中に入ってしまえばすぐに暑さでminimuの顔が紅潮してくる。だから、頂き物のオシャレ服よりも、着脱しやすい実用的な服ばかり着せてしまうのだった。ああ、これぞ宝の持ち腐れ。

本のテレビを見ていると、あまりにも北朝鮮の話題が多いのが気になる。もちろんそれらは拉致事件の早期解決に向けて有意義なのだろうけれど、今の取り上げ方はあまり好きではない。北朝鮮のニュース番組やドラマなど、日本から見れば異常とも受け取れそうな洗脳的な一面ばかりを繰り返しているように思えるからだ。日本のテレビこそ、北朝鮮へのネガティブイメージを植え付けようとしているかのようだ。もっと問題の歴史的背景とか、日本が被害者だという切り口以外から見た情報も欲しい。悪い事は改められるべきだし、問題を解決したいと思うから、イメージを先行させるよりも冷静で公平な視点も持ち合わせたい。


Mar 1, 2004

録的な暖かさで冬日さえなかったという2月が過ぎて、いよいよ年度末の3月に入った。春本番も近いかと思っていたら、今日はいきなり冬に逆戻りというような寒さで、雪まで降ってくる始末である。こんな風におかしな気候の時は、ついうっかり風邪をひいてしまったりするので十分気をつけたい。完全に暖かくなる前にもう1度は食べようと、週末におでんのタネを買い揃えておいてよかった。こんな寒い日に作ってこそ、さらに美味しく感じられるし身体も温まれる。今日も圧力鍋が大活躍である。

語のレッスンで先月から新しく始まったIdiomのコーナーが面白い。教材は「101 American English Idioms」という、101シリーズの一冊を用いており、先生が毎回見開きの2ページ分をコピーして配ってくれる。このサイトのBooksコーナーで「101American Customs」という本の紹介をしているが、101シリーズはAmerican Englishを楽しく学びたい人に特におすすめの教材である。

日取り上げられた中で、ちょっと使えそうだと思ったのは「for the birds」という“くだらない”とか“つまらない”という意味のIdiomだ。自分にとってはまったく興味や価値の無い物事について、「It's one for the birds.」というように用いる。先生曰く、「そんな物はせいぜい鳥にでもあげて」と、飽き飽きした感じで言えば、感情がこもってより良いとのこと。ちなみに誰と誰がくっついたとか別れたとかいう日本のゴシップについて、先生は時々このidiomを使うのだそうだ。




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